題目碑について

題目碑について

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 旧街道や往来を歩くとき、いろんな石造物を目印にする。備前・備中・備後、美作の街道・往来を歩くとき、幾度となく「南無妙法蓮華経」と刻んだ石塔(石碑)と出会った。
 最初は山陽道(西国街道)で自然石に「南無妙法蓮華経」と刻んである石を見た。その後、岡山県内の往来を中心に歩き始めたとき、備中でも題目碑を見たが、かなり大型だった。
 さらに津山往来を歩くと、ここでも大型の題目碑を見た。地域によって形や大きさが違うような気もした。文字が風化していて判読できないものも多いが、何となく読めるものもある。そこから何かを知ることができるかも知れない、と思う。歩きながら観察し、調べていきたい。

定 義

 題目塔、題目石などといわれることもある。日本石仏事典第二版p119-121では、題目塔を「題目講の建立になる供養塔をさす。」として、関東地方の題目塔について説明する。宮崎県のものにも言及するが、中国地方の題目碑については書いていない。また、記述の内容についてもいくつか興味深いものはあるが、全体として岡山の街道・往来で目にするものとは少し異なるように思える。
 ここでは、管理人にとって一番しっくりくる岡山県大百科下p34の【題目石】の項目(項目の著者/加原耕作、板津兼六)を引用し、他の資料の情報で補足する。

 日蓮宗の題目を刻んだ石塔。題目塔ともいう。日蓮宗では法華経に帰依する意味で<南無妙法蓮華経>という題目を唱えると、その功徳によって成仏するといい、この題目を紙にして本尊としたり、石塔に刻んで寺や村々の辻などに立てている。
 この題目を刻んだ石塔が題目石であり、日蓮宗の盛んな備前地方を中心に備中東南部、美作南部などに多く見られる。
 岡山県下に残る最も古い題目石は大覚大僧正の自筆と伝えられる岡山市円山・大光院の題目石(康永4年=1345=銘)、都窪郡清音村軽部・大覚寺(暦応5年=1342=銘)の題目石で、いずれも県指定重要文化財である。
 紙に書かれたり、石に刻まれた題目の文字は<法>の字を除いて他の6字の筆端が鋭く延びているので髭題目と俗称し、その髭の部分を光明点と呼び、仏の慈悲をあらわすという。(引用ここまで)
(管理人注:平成28年7月現在、岡山市円山は岡山市中区円山、都窪郡清音村軽部は総社市清音軽部である。)
岡山県内の古い題目塔

 日本石仏事典では「題目塔」とは別に「読誦(どくじゅ)塔」という項目を設け(p258-261)、「特定の経典を読誦した記念に建てたものである。」としている。
 最初の頃、この定義に従って読誦塔と題目塔を分けて考えようとしたが、目の前の風化した石碑が、「題目塔」か「読誦塔」か徒歩旅行の途中で区別をするのは能力を超えていた。
 笠塔婆型のものは大方読誦塔であろう、と推測できるが文字の風化が著しい場合、千部とか万部という文字が判読できない。さらに自然石であっても千部や万部の文字があるものもある。
 徒歩旅行の過程でまとめやすいように、このサイトでは、以下の定義をとり、あとで必要に応じて整理することにした。

  1. 道に向った正面に「南無妙法蓮華経」と刻んでいる石塔全体を題目碑とする。
  2. 題目碑のうち笠塔婆型や角石柱型など外形を明確に加工したものを題目塔とする。
  3. 題目塔のうち、必要がある場合は、笠塔婆型のものを笠題目塔として区別する。ただし、単に題目塔としている場合もある。
  4. 題目碑のうち外形が自然石の形態を保ったものを題目石とする。
  5. 読誦についての記述が判明した場合は必ず記載する。

 この定義を適用すると下の五基すべてが題目碑である。左の三基が題目塔、そのうち笠のある左から3番目が笠題目塔である。右の二基はどちらも題目石となる。

大供の題目塔 箕島の題目塔 野々口の題目塔 の題目塔

 なお、この定義は、津山往来の整理作業の過程で考えたことなので、過去の記録では統一できていない(平成28年7月18日現在)。今後、改定作業のなかで統一を図りたい。また、これはあくまで個人としての区分であり、宗教的な原則や学術的な根拠に基づくものではない。

その他のあれこれ

誦経について

 法華経を千部あるいは万部誦経するというのは題目を千回唱えるのではなく、一群のお経を千回あるいは万回唱えるということのようで、法華経は約7万字が一部のようだ。
 「法華経の字数は六万九千三百八十四字ある」(建部町史民俗編p665)。
 また、題目を唱えた場合は「首題××部」と表記するようで(同前)ある。ただし、その両方がどの程度厳密に使い分けられているかは、不明である。

備前以外の題目碑

 備前法華というが、日蓮宗は岡山だけの宗派ではないので、各地に題目碑があっても良さそうだが、そうでもない。
 地神塔(特に五角のショウ儀型)の建立は、農政に係わる行政組織(藩庁、村役人)の発起や指導があると思われるが、題目碑の場合は宗教的な講の存在が鍵になるように思える。講を支えるには、一定密度の信者が必要だと思い至った。

 管理人が歩いた京都から長崎の区間のうち、題目碑が記憶に残っているのは長崎県の東彼杵町である。長崎街道に関する資料では、街道の目印にしているものもあった。
 長崎街道の資料及び地元の町誌などでは題目石や題目塔ではなく千部塔、万部塔と記述してあった。これは前記読誦記念の塔として捉え方である。
彼杵の千部塔・万部塔

 資料を散策していたら、大村法華、備前法華、七里法華という言葉に出会った(『肥前「大村法華」と霊鷲院日審の弘教』、冠賢一著、日蓮教学研究所紀要33号、立正大学日蓮教学研究所)。この3地域は法華宗の盛んなところだったようだ。つまり、題目碑を建立する力のある信者組織が成立していた、と思われる。

 大村藩の場合、切支丹禁教の影響で法華宗が広がり、講組織も整備されたように思える(「大村の歴史」、大村市教育委員会編・発行、平成15年、p126-135。「東彼杵町誌 水と緑と道」上巻p421)。千部塔・万部塔の建立を耶蘇ではないことの証と見るホームページも目にする。
 備前での題目碑の建立をどう考えたら良いのだろうか。素朴な信仰の発露なのか、不受不施の禁教と何か関連があるのか、それとも別の何かがあるのか。少しずつ考えていきたい。

七里法華と備前法華は戦国期初期に形成され、大村法華は幕府草創期に形成されたことなどが分かった(『肥前「大村法華」と霊鷲院日審の弘教』。なお立正大学学術機関リポジトリで閲覧可能)。
 「上総七里法華」という言葉をウィキペディア引くと「不受不施派」が多かったことも書いてあった(サイト確認:平成28年7月30日)。

書きかけ項目です。今後追加修正の可能性があります。


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