明治以降の道路標

明治以降の道路標

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明治時代の道路標

里程元標

 明治6年12月20日の太政官第413号(達)(たっし)はそれまで曖昧だった道路の距離の測り方を定め、あわせて里程仮標を建てて、図面に記載して翌明治七年三月三十一日までに提出するように指示している。

 そこには次のことも指示されてる。

【参考資料】 (サイト確認:平成28年10月9日)

 明治6年当時、岡山の県庁所在地は、1)北条県の津山、2)岡山県の岡山、3)小田県の笠岡だった(ウィキペディア、2015/12/21確認。「岡山県通史 下、岡山県管轄地沿革一覧」など)。平成27年12月現在確認しているのは岡山県道路元標のみである。

 北条県・津山の里程元標は「宮川橋中央ヲ距ル西弐拾四間四尺ノ所ニ在リ、明治八年十二月初テ建設」(調査報告2 津山往来、p36。「津山誌」からの引用)された。ただし、少なくとも同地には現存していないようだ(調査報告2)。

 小田県は明治8年(1875)年岡山県に併合されているので、里程元標を立てることもなかっただろう、と推測している(平成27年12月22日)。

岡山県道路元標 岡山県の里程元標は最初明治9年に設置(説明板による)され、その後明治40年に立て替えられている。そして大正4年の京橋付け替えまで利用され、京橋西詰に復元されている。岡山県里程元標(岡山シティミュージアムデジタルアーカイブ)


里程標

 里程元標に対応して、「一 各府縣共其管轄地界へ木標ヲ可取建事」という太政官第413号(達)の指示により、それぞれの元標よりの距離を示した里程標が立てられたと思われる。前述の通達では木製の標識が指定されているが、現在見ることができるのは石柱である。

 岡山を起点とした里程標は街道歩きの過程でいくつか見ているが、最初里程標の意味を理解していなかったので、見落としもあるかも知れない。

岡山元標からの里程標

西国街道

出部(いずえ)の里程標

 下出部(いづへ)駅近くで見た「距 岡山元標十三[里]」の里程標。[里]は地面に埋まっていて見えない。側面には「距 三石管轄境 廿三里十四[町]」と記述している。[町]はほとんど埋まっているが、上に角があるので判断できる。さらに反対側に「距 高屋管轄境 廿六[町]あるいは[丁]」[ ]内は前に石があって、端しか見えない。設置年を確認するのを忘れたが、「山陽道の拓本散策」p152及び調査報告1p48によれば、明治14年5月である。

鴨方往来
倉敷市松島の里程標

 川崎学園の近くで見た「距 岡山元標三里」の里程標。側面には「距 下津井管轄七里一町四十間」と記述している。明治15年に設置され、右面に「距 下津井管轄境 八里一町四十四間一尺」と刻まれている(摩耗して判読できないところは鴨方往来拓本散策p46-47による)。

倉敷市平田の里程標

 倉敷市平田の民家の庭先で見た「距 岡山元標四里」の里程標。側面には「距三石管轄境十四里十四丁」「下津井管轄七里一町四十間」と記述している(摩滅して判読できないところは、調査報告6 金毘羅往来と由加往来 ; 倉敷往来 ; 鴨方往来による)。

下津井往来
倉敷市串田の里程標

 倉敷市串田「距 岡山元標七里」の里程標。[七里]は判読できない。側面には「距 下津井??境 」と読める。調査報告6p13では、二片になって個人宅駐車場前辺に放置されていると記述しているが、現在は囲んだ石を支えにして立っている。下部が判読できないのは折れているからか?明治十五年五月一日と設置された日付がある。
 下津井まで四里一町四十四間余、三石まで十七里十四丁、と標示されている(判読できないところは調査報告6p13による)。

由加往来
由加の里程標

 倉敷市児島由加「距 岡山元標六里」の里程標。廃道に近い荒れた山中にある。この道がかっては主要な道路の一つであった面影はまったくない。「明治十八年六月岡山県」の表示は確認を忘れた。

津山往来
弓削駅前の里程標  津山往来から少しそれた弓削駅前の里程標。「距 岡山元標十一里」「明治十六年 五月」と記述している(判読できなかったところは、「津山街道歩いてみれば」p16による)。

津山元標からの里程標

津山往来

 ※津山からの里程標であるので目的地を往来名に冠する慣行によれば岡山往来、あるいは備前往来である。

石引峠の里程標・津山七里

 福渡石引峠で見た「距 津山元標七」の里程標。下は埋まっていて「里」は読めない。側面には「久米南条郡福渡村字石(不明)」「明治五年検査」と記述している(判読できなかったところは、調査報告2 津山往来p17による)。

神目の里程標・津山六里

 神目から下二ヶに通じる道の入口にあった「距 津山元標六里」の里程標。猪よけの鉄網にふさがれた藪の中にあった。側面、背面は読めない。また、ここから下二ヶまでの道は津山線に沿った道だが、途中で立ちふさがる藪のため通行不能だった。

誕生寺の里程標・津山四里

 誕生寺道標から国道53号線の西側の高台を通る旧津山往来。誕生寺池を過ぎて、しばらく行くと墓地の端に「距 津山元標四里」の里程標がある。すぐ先に津山線を越える橋がある。

亀甲の里程標・津山三里

 美咲町のわらび信号交差点から国道53号線を500メートルほど北上したところで右に分岐し、さらに150メートルほど進んだところに「距 津山元標三里」の里程標がある。コンクリートで固定しなおしてあり、劣化していて文字は読みにくいが「津山元標三里」「久米郡××」という文字は読めた。

高清水の里程標・津山二里

 亀甲石方面から亀甲信号交差点で53号線を横断し、真菰池の北岸から坂道(高清水峠)を上り、乳塚の近くを通り、福田に下りる林道のような道の傍に「距 津山元標二里」の里程標がある。亀甲側から進んで一度道に迷ったが、福田側からであれば迷いにくいかも知れない。

津山郷土博物館前

 津山郷土博物館の前庭に道標や里程標がある。津山からの里程標は下の二つ。左側には久米南条郡一方村と設置場所が記載されている。地中に埋まって距離は確認できないがこれが津山往来の一里ではないか、と考えている。
 右側は壱里と距離が書いてある。場所の記述を確認するのを忘れたので、どの道の壱里が不明。
津山郷土博物館前1 津山郷土博物館前2

中国勝山
勝山の里程標・津山八里 中国勝山で見た距津山八里の里程標。武家屋敷館の入口への看板横。旧出雲街道沿いに設置されたものであると思う。明治七年一月の記述あり。
 平成28年9月10日、十八切符があまったので高瀬船の発着場を見に行ったとき発見。


大正時代の道路標

道路元標

 大正8年4月道路法が公布され、その施行令が大正8年11月勅令460号として発せられた。「第九條 道路元標ハ各市町村ニ一箇ヲ置ク」としている。これに基づき、市町村単位で道路元標が設置された。

【参考資料】
岡山市道路元標

 岡山市の道路元標は、先の里程元標の近くにある。京橋西南詰、橋の欄干が親柱から地面に伸びたところにある。派出所の近くである。

金川町道路元標

 金川町の道路元標は、金川駅方面から北上し、宇甘川を観波橋で渡り、すぐ先にあるかながわ酒蔵(岡山市北区御津金川)の角にある。津山往来の路傍である。 金川は、明治22年(1889)金川村、大正4年(1915)金川町、昭和28年(1953)牧山村、宇垣村、宇垣東村、宇甘東村、宇甘西村、赤磐郡葛城村、五城村と合併して御津町となった。平成17年(2005)3月岡山市と合併し、岡山市北区御津となった。

宇垣村道路元標

  宇垣村の道路元標は、野々口駅から100メートルほど西に向かって進み、旧国道と交差するところにある。アスファルト舗装によって下部が埋まっている。津山往来は山側の道が通れないので、この道を通った。

 宇垣村は、明治8年(1875)河内村のうち山条、富谷、原をあわせて宇垣村、明治22年(1889)河口、野々口の二村と合併して宇垣村、昭和28年(1953)の合併で、御津町となった。そして、平成17年(2005)3月岡山市と合併し、岡山市北区御津となった。

一宮村道路元標

 一宮村の道路元標は、国道180号線から吉備津彦神社へ入る道の西角にある。山陽道(西国街道)の路傍である。
 一宮村は、明治22年(1889)尾上、西辛川、辛川市場と合併して、一宮村、昭和30年(1955)に平津、馬屋下と合併して一宮町、昭和46年(1971)に岡山市と合併して岡山市となった。

藤戸町道路元標

 藤戸町の道路元標は、藤戸寺と盛綱橋を結ぶ道の北側、藤戸饅頭の入口のところにある。
 明治16年(1883)に藤戸と天城の二村が合併して天城村になり、明治22年(1889)に藤戸村と改称。さらに大正4年(1915)に町制施行、昭和29年(1954)に倉敷市に編入された。(岡山県大百科)

下津井町道路元標

 下津井町の道路元標は、倉敷市下津井市民サービスコーナー駐車場の端にある。
 明治22年(1889)に下津井と吹上の二村が合併して児島郡下津井村になり、明治29年(1896)に町制施行などのあと明治40年(1907)に長浜町と合併して下津井町になった。さらに昭和23年(1948)下津井、味野、児島、本荘の4町村が合併して児島市、昭和42年(1967)の合併で倉敷市となった。(岡山県大百科)


最終更新日:平成28年10月9日 追加記載の可能性あり。

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