鴨方往来目次

岡山の街道・鴨方往来

岡山城 小田県庁

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歩行の記録

鴨方往来経路概念図

区  間距離歩行日説 明
千阿弥橋跡~野田茶屋
2.9キロ
平成27年1月23日
8時45分--14時40分
説明1
野田茶屋~境目川
3.5キロ
説明2
境目川から撫川
3.5キロ
説明3-1 
撫川から中庄(倉敷市鳥羽)
3.5キロ
説明3-2
中庄から倉敷駅近く
4.8キロ
2月13日:9時40分-16時30分
2月20日(西阿知9:15--一ノ口水門10:20・10:25--15:20金光)
説明4-1
倉敷駅近くから船穂橋西詰
6.0キロ
説明4-2
船穂橋西詰から新倉敷駅(玉島爪崎)
6.0キロ
説明5-1
新倉敷駅(玉島爪崎)から金光(占見)
6.6キロ
説明5-2
金光(占見)から鴨方陣屋跡
3.4キロ
4月16日9時40分--16時20分
説明6
鴨方陣屋跡から湯ノ池
2.9キロ
説明7-1
湯ノ池から里庄
2.5キロ
説明7-2
里庄~笠岡
6.0キロ
4月23日9時40分--13時00分説明8
笠岡~大門
6.9キロ
平成28年2月1日
9時30分--14時05分  
説明9
大門~福山
8.3キロ
2月19日9時24分--13時40分
説明10
千阿弥橋福山
66.8キロ
    

 ※1:距離は往来としての地図上の距離。yahoo地図で測定し、寄り道や迷い道は除いている。測り方で若干変化する。時間は実際にかかった時間。道を探して戻ったり、寄り道をしたり、休憩や昼食をとったりした時間も含んでいる。

【参考】
 笠岡から福山まで我々は2日かけている。初めて歩く道で、明確な順路図もなく、目印を確認しながら歩き、なおかつ見落としがあった場合もどって確認したために大幅な時間がかかった。寄り道もかなりしたので、あまり一般的なものではない。

 試みに別の機会に道を探さず、寄り道した時間を除いて計時してみると、笠岡駅前から福山市御船町一丁目の道標まで4時間30分であった(歩行日平成28年3月4日:天気曇)。

 ※2:中庄駅前~金光区間:最初一ノ口水門を見学せず船穂を経由して、新倉敷(玉島)まで歩いた。その後一ノ口水門の重要性に気づき、次回に里庄-一ノ口水門-船穂-金光という経路を歩いた。このため、歩行日としては2日(下記参照)となった。距離は中庄--金光間の往来の距離である。重複部分、一ノ口水門までの往復は除いてある。なお、一ノ口水門までの往復に関する記録は[船穂橋西詰から新倉敷駅(玉島爪崎)]説明5-1の一ノ口水門~一ノ口水門で記述。

2月13日 中庄(9時40分)---新倉敷駅(16時30分)<一ノ口水門には行かず>
2月20日 西阿知(9時15分)---一ノ口水門---金光(15時20分)

 ※3:歴史の道調査報告6の地図は、威徳寺(笠岡市笠岡5418)周辺で終わり、記述も笠岡と福山の市境つまりは岡山と広島の県境の峠で終わっている。笠岡以西の往来はいくつかの資料を参照して道を選択した。(笠岡から福山の往来について参照)

鴨方往来について

起点と経路

 歴史の道調査報告 第6集p61では、「岡山城下を起点に備中を西に向かい、庭瀬、鴨方を経由して、備後福山藩大門へ通じる道を鴨方往来と呼ぶ。」としている。

 鴨方を経由して大門に向かう往来は、庭瀬へ向かう庭瀬往来として始まる。これは吉備温故 巻十七 官道下でいう岡山より備中国賀夜郡庭瀬駅に至る二里である。ここでは城下栄町千阿弥橋が起点として記される。

 関連する歴史の道調査報告でも基本的にそれを踏襲している。我々も榮町千阿弥橋を岡山城下から出る往来の起点とした。千阿弥橋は石橋であったようだ。千阿弥橋について

 経由地にしても、道中奉行が管理していた五街道、それに準ずる西国街道(山陽道)などの脇往還とは異なり、区間・経路・名称は時により状況により変わったと思われる。それらのすべてを把握し、比較する力もないので、歴史の道調査報告の記述を原則とすることとした。

 名称も歴史の道調査報告に準じて「鴨方往来」で統一したが、自分の感覚としては岡山から鴨方までを「鴨方往来」、鴨方から笠岡までを「笠岡往来」、笠岡から福山までを「福山往来」と呼びたい。往来や周辺の歴史を調べるために各地域の資料を読む過程ではそれがいちばんしっくりした。

 備陽国史では「岡山駅」を官道の起点としており(吉備群書集成(一)p110-111)、岡山駅の所在地として「小橋町に有り」としている(同前、p115)。また、小橋町、栄町の項にはどちらにも道の起点という表現はない(同前、p115)。この記述に従えば、備陽国史編纂当時(元文2~4年:1737-1739)の官道の起点は小橋町になる。吉備温故の成立(寛文年間:1789-1801)との時差による可能性があるが詳細未確認。
 

 内容は点検していますが、思い違いや誤記が残っていると思います。もし、お気づきになった場合は、メールアドレスまで、お知らせ下さればさいわいです。
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参考文献
岡山の街道を歩く
街道トップ

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歩いた人:高田、二反田、池内、衛藤(サイト管理人)

なお、高田さんに計時を、二反田さんに距離測定をお願いしています。また、歩いた人それぞれが地図を調べたり、情報を集めています。情報を探した人の氏名は個々には記していませんが、それらのまとめがこのサイトです。