興除新田の国境標柱

興除新田の国境標柱

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備前・備中の国境標柱について

 備前と備中の国境石は、山陽道を歩いたとき岡山市北区西辛川(西辛川の国境碑)で初めて見た。その次に鴨方往来を歩いたとき、備前と備中の国境であった境目川横(久米の国境石 鴨方往来)で見た。なお、後者二つのものをこのページでは国境標柱とする。その形状を著すのに適した言葉だと思うからである。

 境目川の国境標柱と興除新田の国境標柱はどちらも農業や漁業など産業上の争いの結果、境界を示すために打たれた。また、最初は木製の杭を打ち、その後石の杭(標柱)に変更していることも似ている。(境目川と境界 往来の逸話 岡山の街道を歩いたときの記録)

 しかし前者が一つの用水路に沿ってほぼ直線に展開していたのに対し、後者のそれはかっての海岸線の沿ってジグザグにつながり、かつ範囲が広い。これは干拓による領地の拡張という特異な状況下での国境争いの結果である。

 なお、前者の石柱12本(撮要録p629、木柱はそれぞれ13本ずつであったので1本あわないが理由は不明)のうち立った状態で確認できたのが2本であるのに対し、後者は10本のうち6本である。後者が展開する地域の人々の地域への愛着の深さとともに、現在も農地が多いことがその理由であると推測している。

現存する興除新田の国境標石について

 

興除新田国境標石全図
大きな地図を見る⇒

表1 興除新田国境標柱一覧

  
番号方 角 記 述設置場所現況写真
從是東南藤田用排水機場横
  
       
  • 妹尾前
  •    
  • [妹]大福外野
  •   
大福の国境石
従是 宇野線線路:大福踏切を起点にして、南側を妹尾方面に進みながら、北側を見る。舗装が切れて少し行くと、右側用水沿いに頭を少し出した国境石が見える。
  • [妹]大福線路
線路の国境石
三 未確認 [妹尾と興除の町村長が交通の邪魔になるので、現地の地下に埋没する文書を交換して埋めている]
  • 同家前
  • [妹]妹尾南町
画像なし
四 従是西南 せのう病院の南。妹尾緑道と舗装道路の交差点。[妹尾、箕島、内尾の境にあったが、河川工事のため(略)移設保存]
  • 箕島東端
  • [妹]箕島妹尾
線路の国境石
五 未確認 戦後まで国鉄箕島駅南の国境川土手にあったが、現在は某家屋敷内に移転]
  • 同家前
  • [妹]箕島寺南
画像なし
六 從是東 早島駅南の墓地内。
  • 早島墓所脇
  • [妹]早島前潟
早島の墓地内の国境碑
七 從是東  茶屋町早島の境目川沿い。【行き方】興除小学校の南西角から南に下がり次の右への分岐を西に進む。途中で県道21号線を横切り、ひたする西にまっすぐ行くと、やや幅広の用水(境川)にぶつかる。そこを左に曲がり、用水の東岸を南に行くと、西岸に説明看板と国境石がある。その先の橋の西詰には道標もある。
  • 早島
  • [妹]早島境川
早沖の境目川横の国境碑
八 未確認 [交通上邪魔になるとかで、双方の責任者が協議して埋没している。]
  • 同(早島の意:管理人注)
  • [妹]茶屋曽根
画像なし
九 未確認 [茶屋町と西畦の境にあったものを藤戸の某家邸内に移転。]
  • 帯江
  • [妹]茶屋西畦
画像なし
十 從是東南  地名としては帯高。[倉敷市豊洲の六間川堤に半ば埋もれていたものを、昭和45年に(略)六間川の内堤の道が大きく東にカーブする広いあき地に(以下略)]
  • 同(帯江の意:管理人注)
  • [妹]帯江天城
帯江の国境石

  1. “・”のあとの [妹]は「備前、備中国境碑」、長原弥一著、(「妹尾・箕島のむかしをたづねて」第2輯p104-。妹尾を語る会運営委員会編・刊、平成12年)の記述を引用したもの。部分的な引用になったことをお詫びする。
  2. “・”のあとに何も補記していないものは「興除新田記」巻六、干潟之部三 御国境標建之事(岡山藩留帳方編纂、文政八年(1825))の記述を引用。ただし、このサイトで参照したのは岡山県史第27巻、岡山県史編纂委員会編、岡山県刊、昭和56年(1981)、p233-234である。

  3.  『これより』の[從]と[従]は国境碑にある通りの字体で表記した。

参考資料

 国境標石を網羅的に実地検証した資料としては前記長原氏の「備前、備中国境碑」とインターネットサイト備前・備中国境標石(2)(うたかたの径:サイト確認平成28年5月5日)の2点を参考にした。どちらの資料も非常に有用だった。
 前者は、姿を見ることができない4本の標柱も含めて、立てられた10本の標柱すべてについて論及されており、不明の標柱の情報は得がたいものである。上記一覧表は、「備前、備中国境碑」の番号、順番を基準とさせていただいた。後者は電子版の地図があるので実際に見学に行くときに役にたった。

 興除新田に関する資料としては、上記「興除新田記」を参照にした。岡山県史版と異なる写本である池田家文庫版は、原文をマイクロフィルムからの複写で読んだ。このことも含めて、2つの点に疑問を持ったが解決に至っていない。このため、このページは書きかけページとしておきたい。また興除新田全体の理解のために「岡山藩」(下記参照)及び「妹尾・箕島のむかしをたづねて」第2輯、改訂茶屋町史を参照した。

解決できていない疑問点

1.六番目の石の方角

 岡山県史第27巻p233-234では「六 早島墓所脇」の標柱は「従是東」とされている。しかし、「備前、備中国境碑」では、「従是東南」となっており、箕島駅南の墓所にある標柱は東南と刻まれている。
 念のため県史の興除新田紀(旧岡山県文化センター所蔵のものが原典)と異なる系統の写本である池田家文庫の興除新田紀(マイクロ資料からの印刷物)を見た。表記が微妙に異なる部分があったが、方角については両者の記述は同じだった。

 文化センター版の原典はデジタル岡山大百科により原典画像を閲覧可能。岡山県立図書館 電子図書館システム 和装本(興除新田紀巻6 を選んでください。(直リンクを張るとトラブルが生じることがあるので。サイト確認:平成28年5月14日)。

2.「從」と「従」

 表1の②と④は「従是」、①⑥⑦⑩は「從是」である。参考資料としたインターネットサイト備前・備中国境標石(2)及び近代化以前の土木・産業遺産岡山県(サイト確認:平成28年5月5日)では、「従」の字のものが「後から作り直された可能性」を指摘している。その可能性はかなりあると思うが、鴨方往来境目川と境界でも述べたように管理人はあえて「保留」としておきたい。理由は以下の通りである。

  1. 「従」の字を使ったもので少なくとも江戸時代末期より前だと思われる道標をいくつか見た。
  2. 「従」の字体は手書き文字としては、ごく普通であるようだ。東京大学史料編纂所の電子くずし字事典データーベースで検索してみると、かなりの従の字体が見える。なにより、池田家文庫の「興除新田紀」にも「従」の字が使われている。
  3. 150メートルほどの間に立てられた2本の道標のおなじ言葉を二種類の字体で表記している遍路道標を見た(「遍ん路」と「へんろ」:倉敷市藤戸、二ツ池の北端と南端地蔵堂前の二本)。遍路道標と国境石では格式が異なるが、別の例(※1)などもあるので、最初からあまり「字体」にこだわらない可能性も残しておきたい。

※1 文化センター所蔵の「興除新田紀」では「九 自是」となっているが、「池田家文庫所蔵の「興除新田紀」では十本とも「従是・・・」と表記。なお岡山県史第27巻p54では、文化センター版の方をより原本に近いとしている。
 ちなみに、久米の国境石は「従」、延友の国境石は「從」である。

作業未了の項目です。今後追加修正の可能性があります。

六番 早島駅南墓所の国境標柱の説明板より

【史跡 備前・備中国境標石】

(町指定重要文化財) (昭和44年6月17日指定)
 早島町の歴史は、町の南部に広がる児島湾干拓の歴史である。人々は多くの労力と工費を費やして、この児島湾の干潟に前潟・沖新田などの新たな大地を開いた。そしてさらにその南東にひろがる広大な干潟の開発を計画した。

 ところが、その干潟の帰属をめぐり早島を始めとする備中の旗本領の村々と対岸の備前児島の村々が激しく対立し、寛延・宝暦・文化の各時代、約百年にわたる裁判となった。その結果、今ある備中方の新田の堤を国境線とし、それより南の干潟は備前領にするとの裁許が下った。

 そして1823年(文政6)、この干潟は備前領の村々によって開かれ、「興除新田」と名付けられた。この国境石は、1814年(文政11)の裁許の後、その国境を示すために立てられた10本の一つで、早島の干拓の歴史を今に伝える貴重な資料である。

 なお、この標石は昭和41年に盗難にあったが、その後無事に戻され、元の場所から若干早島側の現在の地に設置されたものである。

興除新田について

 多くの資料があるが、以下の資料からの引用を掲載する。

岡山藩

谷口澄夫著、吉川弘文館、(新装版1刷)平成7年、p168-171

 文政六年(1823)に完成した著名な興除新田(児島郡、八三九町歩・5096石)は、海面の帰属問題が紛糾した百年余の係争の歴史をもつものとして、干拓史上に類例のない稀なものといえよう。

 いま『興除新田記』(八巻)によってみれば、すでに享保年間に津田永忠の実子と称せられる備中早島の浪人梶坂左四郎が、この海域の干拓を計画して頓挫したことがあり、その後、江戸・大坂町人などによる干拓割り込みが画策されたり、備前・備中の国境争いまでに発展したことがあるが、ついに文政三年幕命により倉敷代官の監督の下で、岡山藩が請負って開発する運びとなった。

 ただし、実際に干拓工事を引きうけたのは児島郡の大庄屋五人で、夫役は郡内四二ヵ村へ割付けて着工した。幕府へ申達した開発経費は銀五三二二貫目余(金八万八七〇五両余)であって、藩当局が四万七八一七両を負担し、残り四万両余は児島郡側で調達したようである。銀主の中にはのち興除新田内尾の大地主・名主となった城下町人の紙屋利兵衛(岩崎姓)も加わっていた。

 ついで文政六年に検地が施行され、石盛は上田一石二斗・上畑一石と決められ、免は二ツ五分とし五年(地内)ないし一〇年(外通り)の鍬下年季が定められた。さて、新田の土地配分は地代銀を取立てて売り捌く方針をとったが、地代銀(地価)が高額(例えば上田一反が銀六〇〇匁)なため年賦払いにしたり、藩当局から手元銀・農具代・肥料代の無利年賦払いでの貸与、家屋の建造修繕費の支給などの撫育制作をとって入百姓の定着を計ったが、おのずから地主・富商の手に土地は集中的に買得され、中・下層農民はほとんど小作人とならざるを得なかった。

 さて、興除新田の開発は「公儀の御取り扱」となったので、「一国一円拝領之名目に拘わる故」に、備中領分のうちから同高の替地一二ヵ村を幕府へ差し上げて、この興除新田は岡山藩の領有となったわけである。

 さて、この「上知」された替地一二ヵ村は直ちに岡山藩の「御預所」となったが、その本年貢一〇一九石余(石代銀は六三貫五八一匁六分)および高掛三役銀一貫五九八匁余は、幕府(実は大阪御金蔵)へ銀納することになり、その口米三〇石余のみは岡山藩へ下付されることになった。(引用ここまで)


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