下津井往来・相生橋西詰から龍神社

下津井往来2・相生橋西詰から龍神社

相生橋西詰から龍神社までの略図

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歩行日 平成27年12月4日(金)11時20分--15時05分 相生橋西詰~龍神社 距離 約 6.3キロ(千阿弥橋跡から累計 13.1キロ)


 相生橋西詰から140メートルほど進んだ最初の交差点。交差点手前左角に水神碑がある。石碑は3基あるのだが、他の2基は文字などは判読できない(左写真)。交差点の右、往来から少し離れて細い道を北に進むと、新旧4基の題目碑がある(右写真)。
大福の水神 相生橋の西詰

 そこから200メートルほど南西に進むと、右手に石柱一対がある。注連石(しめいし)というものらしい。

鴨池神社の注連石

 向って右の柱には「干時 安政五年[戊]午八月吉祥」と建立の日付が書いてある。(干時は、[日ニ]と読むらしい。日付程度の意味か。[戊]は推測。)
右には「奉 丁組氏子中 [本]願主 八濱屋 宗八[?]」と願主の名前が書いてある。([本]は推測。[?]は隠れてよく読めない。本願主は発起人のことだろう。)

 この先の神社が気になったので平成28年3月25日に行ってみた。鴨池八幡神社

 注連石のところから130メートルほど西に進むと、左に曲がって橋を渡る道と、用水沿いにまっすぐ延びるやや細い道がある。ここは左に曲がる(左写真)。
 曲がって70メートル弱進んだところの最初の分岐を右に曲がって用水を越える。
用水を渡る  分岐-大福

 そのあと890メートルほど直進。途中左側に岡山大福郵便局がある。郵便局から150メートルほど進んだところの交差点、往来は直進だが、題目碑を見るために右に曲がる (左写真:用水が道路と交差し、左向こうに吉岡自転車店がある。また、右手前に丸い大きな石がある)。

 用水沿いを50メートルほど行くと、ブロック塀の陰に題目碑がある。南無妙法蓮華経の下に「法界万霊」と刻んである。
題目碑を見る分岐 大福の題目碑

 先ほど、右折した交差点を左折すると少し先に三社神社がある。調査報告6p7の祇園神社である祇園神社(岡山県神社庁ホームページ 神社紹介:サイト確認:平成28年3月29日))。

 もとの道を進む。右手に「江戸中期の建物」(調査報告6p7)という吉田医院の建物があるが、かなり痛んでいる。その先にかなり大きい題目碑がある(写真)。題目碑が真ん中と左、右側には常夜燈がある。左側の題目碑の右側面には「寛政七年乙卯天十月日」と刻まれている(調査報告6p7)。
大福の題目碑

 題目碑から180メートルほど進んだところで左に分岐する道に曲がる。「ここの地盤は海抜1.1m」と書いた青い標識が付けられている電柱の手前で南に曲がることになる。(左写真)
 そこから200メートルほど直進。少しずれて交差する変則的な交差点にぶつかる。(右写真)ここは右(西)に曲がって、用水に沿って進む。
左に曲がる  分岐-大福

 そこから450メートルほど用水沿いに直進し、県道152号線にぶつかる。右側に中島病院と書いたビルが見える。往来はここを左折、妹尾に向う。
152号線

 道なりに進む。中華蕎麦玉ちゃんが右側にある。裏通りの風情だが、かってはこの道が往来だったのだ。
 県道152号線に合流してから540メートルほど進んだところ左側に岡山市消防妹尾第一分団機庫がある。斜め右、上の方にカネタツと看板のあるビルがある(左写真)。

 往来は分団機庫の先を道なりに左に進む道だが、曲がり角右手カネタツのビルの前を右に入ると、妹尾戸川家陣屋跡がある。
 陣屋の遺構はなく、ただ井戸があるだけである。調査報告6p7には石垣も残っていると書いているが、説明板には井戸のことしか書いていない。井戸の横、説明板後ろの石垣がそれだろうか。
戸川陣屋手前  戸川陣屋井戸

小田県庁門  この陣屋の大手門が笠岡の小田県庁門(現在の笠岡小学校門)として移築された(現地掲示板より)。左の写真は鴨方往来を歩いたときに撮った(平成27年4月23日)小田県庁門である。

 干拓地は飲料水の確保が大変だったようだ。岡山市のサイトでも井戸についての記事を見ることができる(市指定重要有形民俗文化財 戸川陣屋井戸・つちのえの井戸 岡山の埋もれた歴史再発見 No.6 岡山市教育委員会文化財課:サイト確認 平成28年3月29日)。
 また、「妹尾・箕島のむかしをたづねて(第1集)」では、p30からp47まで18ページに渡って地域内の井戸について触れられている。

 もとの道に戻る。戸川陣屋井戸へ向った四つ角を(井戸から進んで)右に曲がり終えたところで大橋病院が左側に見える。そのまま南に向えばJR妹尾駅である。往来は西へ進む。

 四つ辻から130メートルほど進むと、啓運山盛隆寺の山門がある。「妹尾千軒皆法華」と刻まれた石碑が立っている。もとは真言宗の寺院だったが、戸川氏の影響で日蓮宗に宗旨替えをした(盛隆寺の説明板より)。

盛隆寺  庭瀬藩を領し盛隆寺を改宗させた戸川氏、箕島を領し呑海寺を改宗させた花房氏は筋金入りの日蓮宗徒だったようだ。宗教争いも宇喜多家家中騒動の一因だった。

 中には大きな題目碑がある。お寺の北側にある戸川氏の墓所は入口の扉に鍵がかかっていて見学できなかった。(後日、もう一度行き見学した。戸川氏墓所参照

 境内に七面大天女(左写真)や三十番神の祠や社(右写真)があった。七面天女は、法華経の護法神だそうだ。(七面大明神について 日蓮宗尾張伝道センター ここが知りたい:サイト確認2016/04/01)。
 また三十番神も日蓮宗との結びつきが深いようだ(日本の神様読み解き事典p352。また「お寺の紹介 三十番神護国寺」など、三十番神について解説している日蓮宗のお寺のサイトも多い)。

 それにしても、日蓮上人の立像の横に鳥居があるのも不思議な気がするが、明治以前はこれが普通だったのだろうと思う。他日見学した箕島の呑海寺でも番神宮があった。
七面大天女三十番神

 金川を拠点とした松田氏、庭瀬や箕島を領した戸川氏や花房氏、領主が強制や奨励することによってその地域に特定の宗教が広がることはよくあることのようだ。宗教と世俗の権力とは二人三脚なのかも知れない。備前北部、備中南部の日蓮宗、長崎往来を歩いたとき見分したキリスト教(大村藩など)などにその例を見ることができる。
 しかし、そうやって広がった信仰が不受不施派(日蓮宗)や切支丹のように政治権力が禁じても同調しないだけでなく、時に命をかけて抵抗する。不思議である。

 盛隆寺を出て数分歩くと、右側に「矢吹学舎跡 妹尾町重要文化財」と書かれた石柱がある。

矢吹学舎石碑  矢吹学舎は岡山県下で最初に開設された寺子屋である。開設は元亀元年(1570)で長野、石川、福島に開設された寺子屋に次ぐ。岡山藩による郡中手習所の開設(寛文8年:1668)よりかなり早く、これに続く閑谷学校の建設よりはるかに前である。
矢吹学舎について

 題目石が立つ観行院の前を過ぎ、御前神社が右手に見える。平日だったが、扉が開いて雅楽が低く流れていた。
 調査報告6p8に「二つの本殿を一つの共用の拝殿でつないでいる両社宮」とある。同神社の由緒によると、海神と吉備津彦命の二神を祀っている。
 一つの拝殿に二つの入口があり、拝殿内にも机(案というらしい)が二つあり、米や甁子が置いてあった(御前神社 神社紹介 岡山県神社庁)。
 御前神社には「児島湾漁撈回漕図」という寛政十年に奉納された絵馬もあると調査報告に記されている。現在は岡山県立博物館に管理委託されている、と高田さんが教えてくれた。

妹尾の御前宮  妹尾の御前宮

児島湾漁撈回漕図  そのことを忘れて後日御前神社の前を通ったとき、神社の方に尋ねると、拝殿で、レプリカを見せてくださった。「備前、備中の争いが続くなかで、妹尾の漁師中が、自分たちの仕事ぶりを訴えるために奉納した」という説の可能性は大きいと思う。
 その後、拝殿から出ると地元の方がお参りに来られていた。午前中早い時間なのとその様子から特に行事というのではなく、日常的にお参りされているのだと見受けられた。鳥居から外へ出るとき、同じような雰囲気の方とまた逢った。町中の神社とはそういうものか、と思った。

 御前神社を過ぎて、50メートルくらい進んだ右手の路地に題目碑があった(左写真)。調査報告6p8に記載された題目碑であれば天保頃のものだ。

 その先、周囲に銀行やスーパーなどがある「妹尾病院前」交差点に向う。人通りも車通りも多く、雑然とした景色のなかに中国銀行や成田屋の看板がある。どちらも岡山県人にはなじみのものだ。
妹尾の題目碑妹尾病院前交差点

 交差点の手前側(北東角)に大正三年八月建設のしっかりした道標がある。道路の拡幅により移されたという(調査報告6p8)。
 左写真の左側に妹尾郵便局が映っているが、往来はそちらの道ではなく、道標の背後右側にまっすぐ延びる山陽マルナカの前を通る道である。

 道標には「右 すぐ にわせ いなり はやしま くらしき 道」「右 はやしま くらしき 左 せのう おか山 道」「左すぐ にわせ いなり せのう おか山 道」とある。「すぐ」というのは「まっすぐ」の意味らしい。
妹尾病院前交差点 妹尾の道標

 道標の北側(右側)少し離れたところに「高木岩太郎先生 顕彰碑」があった。高木岩太郎氏がどんな方なのかはよく分からない。
高木岩太郎先生顕彰碑

 妹尾郵便局前方面に進むと、興除新田紀に記載されている国境標柱を見学することができる。
 妹尾郵便局前を通って「芳塘園の由来」の説明がある所を左折、左手にせのう病院を見ながら妹尾緑道を南下すると、交差点左側に「備前・備中国境標柱」がある。「せのう病院前信号」から片道400メートルほどである。興除新田の国境標柱

 山陽マルナカの前を過ぎ、妹尾川(旧興除用水)を清戸橋で渡る。ここから箕島である。 家の角に石柱があるが、単なる車よけのようだった。橋から一分ほど歩くと、右側民家の塀の角に、自然石の地神塔がある(右写真)。
清戸橋 箕島の地神

そこから50メートルほどで、県道152号線に再度合流する。交通量は多い。
合流してから100メートルほどで清戸交差点に出会う(左写真)。

 交差点を西に渡り、トマト銀行、ハローズの前を進む。ハローズを過ぎて2本めの路地、美容院・理容コスモスと「せのうファミリー歯科クリニック」の間を進む(右写真)。
清戸交差点 分岐

 分岐した道は最初70メートルほどゆっくり上り、それから70メートルほどゆっくり下りて、すぐに152号線に再度合流する。
 合流後は152号線を西に進む。道路左下に赤松公会堂がある。その先、右手に正住寺がある。さらに左側に「どんぐりコロコロ」というパン屋さんがある。
 大きな道路看板が見える。左側にみやけ整形外科がある(左写真)。県道152号線と21号線の交差する大きな交差点である。交差点の東側にローソン、西側にセブンイレブンがある。交差点を西に渡る。
正住寺 交差点

 左側セブンイレブンの後ろのやや高いところに鳥居が見える。箕島神社である。 箕島神社

 平成27年12月4日に歩いたときには箕島神社に参詣しなかった。平成28年3月25日に参詣したのでその時の記録を記す。


【箕島神社】
同社は八幡宮と御崎宮を明治13年に移転合祀した(調査報告6p8。及び箕島神社 神社紹介 岡山県神社庁)。境内に合祀100年記念の石碑が立つ。また、本殿は二つあり、拝殿も入口が二つある。

 「天保十五年」「甲辰八月」の銘がある常夜燈がある。(調査報告6p8には「文政十三年八月の奉燈がある」とある。この常夜燈のことか他にあるのか不明)
箕島神社2 箕島神社常夜燈

石碑-箕島神社地神塔に似た五角形の石塔があった。それぞれの面に「法五穀成就」「蓮一雨所潤」「妙奉勤堅牢地神鎮座」「経天下泰平」「羊一地所生」(羊は疑問がある)と刻んである。法華経に出てくる言葉のようである。

 この神社は領主であった花房家の崇敬が厚かったということであり、また花房家は日蓮宗を呑海寺に強制(調査報告6p9)していたりするので、神仏混淆的な意味合いからのものか、単に移転されたものかは判断がつかなかった。

 桜と思われる花が満開であった。少し早いのでソメイヨシノではないかも知れない。
箕島神社の桜
 もとの道に戻る。


 箕島神社北側のゆるやかな坂を上る。
箕島神社横の道

 右側に箕島小学校がある。岡電バス「砂場」停留所がある。砂場という地名は箕島村がかって海に面したことを示す(調査報告6p8)。岡山方面行きのバスは平日2便(朝1便、夕方1便)、土日祝日4本だった。

 箕島小学校を過ぎて最初の交差点の左側に砂場公会堂がある。左に入って少し行くと右手に天保三年の題目碑がある。
題目碑

 元にもどって、砂場公会堂の交差点から400メートルほど進んだ交差点(県道152号線と細い道が交差。点滅式信号がある)の北東(手前右)角に「納 東京角力横綱 常の花寛市」という石碑、そのうしろに「大阪角力協会[員] 二代目 西岩青太[寄][?]」([ ]は推測、[?]は不明)と刻んだ石碑が立っている。後ろの「大阪・・・」の方が古い。
 「常の花」は岡山県出身の第31代横綱だが、出身は中山下である(岡山県大百科下p211 項目の著者/入野昌志)。この石碑の意味は分からない。もうひとりの「西岩」については詳細不明である。
常の花の石碑

 そこからさらに190メートルほど進むと、左手のコンビニの手前に大きな題目碑と常夜燈がある。右写真は正面から撮った。「南無妙法蓮華経」「高祖日蓮大菩薩」「天下泰平 国家安全」「天保三年壬辰十月」などの文字が刻まれている。
題目碑 題目碑

 そのすぐ先で右に分岐する道に進んで県道152号線からしばらく離れる。
分岐

 分岐に入って50メートルほど進むと、マンションの敷地の西隣りに塀に囲まれた地神塔(左写真)がある。正面は文化十一年の銘がある題目碑、左側には「地水二神」右側に「薬王菩薩」と刻まれた石碑を配している(左写真)。

 地神碑の背後、池の土手の前に「神如在」と刻まれた石碑(右写真右)と、「記念碑」(右写真左)と刻まれたやや小さな石碑が立っている(右写真)。どちらももともとは暮石山(通称妙見山)の頂上付近、妙見堂の近くにあったものである。箕島の妙見さまを参照。
題目碑 石碑

 妹尾と早島は庭瀬藩戸川家からそれぞれ分家した旗本戸川氏、箕島は備中高松に知行所を置いた花房家の領地だった(調査報告6p8)。この両者は宇喜多家の重臣だったが、宇喜多家家中騒動によって徳川家康に預けられた者だ。

 池の前の題目碑から10分程度歩くと、また右手に大きな題目碑がある。調査報告6p9によると高さは2.5メートルを越えるらしい。「天下泰平国家安全」「高祖日蓮大菩薩五百五十遠忌」「文政十三庚寅年四月吉日」と刻んである。
題目碑

 この題目碑のある所を北に向う道が呑海寺へ進む道である(一つ手前で北に入る道を進んでも良い。結局合流する)。
(後日参拝した。呑海寺参拝記録参照)

 大きな題目碑から60メートルほど歩くと、また県道152号線に合流する。50メートルほど152号線を進むと早島町に入る。道が分岐するところに早島町の町名標識がある。道なりに152号線を進む。(往来から外れるが左に折れて1キロほど行くと墓地の中に備前・備中国境標石がある。)

 道の右側に小さな祠があり、その先に龍神社の石垣、そして鳥居がある。
早島町町名板 龍神社

 龍神社も戸川氏による造営のようだ。公園になっている境内の北側に二つの鳥居と二つの拝殿がある。それぞれ龍王様と祇園様を祀っているのか、いや右の方が境内社の道雄(すさのお)神社かなどと考えたが、はっきりできていない。(龍神社 神社紹介 岡山県神社庁)。
 境内の西側に宇喜多堤起点之地の石碑がある。宇喜多氏は早島周辺の干潟の干拓のために大規模な堤を作った。
龍神社境内 石碑

【宇喜多開墾について】
 天正12年(1584)に岡山城主宇喜多秀家によって行われた開墾。天正10年(1582)の羽柴秀吉による高松城水攻めの後、高梁川以東を領有するようになった宇喜多秀家は、家臣の岡豊前(利勝)、千原九右衛門らに命じて倉敷、早島付近の開墾(干拓)を行わせた。現在の都窪郡早島町早島の町中を通る県道は<宇喜多堤>と呼ばれ、その堤防跡にあたる。(以下略:岡山県大百科上p225 項目の著者/加原耕作)
こちらも参照 宇喜多堤 干拓のまち 早島。早島町ホームページ。


 このあと備前・備中国境標石を見に行く。少し後戻りして、早島町に入ったところの分岐から南に下る(龍神社から少し先の路地を通っても良いが、こちらの方がわかりやすい)。 曲がりながら進み、最初の分岐を左に進む。ここから320メートルほどまっすぐ南下。 第3呑海寺前踏切に至る。

 踏切の手前右角に小さな広場があり、「四百間堤」の説明板がある。「早島と箕島の境、前潟新田の東の端を四百間と言いますが、これは前潟新田の東の堤が4百間(約800m)あったことに由来します。」と書いている。そして、説明板がある広場はその中間点に位置することや、早島と帯江のあいだで争いがあったことなどが書いてある。

 踏切を渡り、ビニールハウスや田を両側に見ながら480メートルほどまっすぐ進むと、用水にぶつかって道は左右に分かれる。右に進む。
 西にまっすぐ進むと、しばらくして水門と墓地、その先に東屋が見える。墓地の端の方に備前・備中国境石がある。
備前・備中国境石 名所紹介 早島町観光センター
第三呑海踏切 備前・備中国境石
【参考】興除新田の国境標柱

 その後JR早島駅より帰岡した。


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