牛窓往来

岡山の街道・牛窓往来

※牛窓往来に関しては現在最終検討中です。掲載事項は確定していますが、誤字脱字、計算まちがいを点検しています。(平成29年2月14日)

岡山県道路元標 牛窓灯籠

* 目次 *


往来の名称

 「光政公御代中 備前 備中 道筋並灘道船路記」では、特に名称はなく、小道のなかに勅旨村から西大寺、西大寺から牛窓の経路が示されている。
 「備陽国志」では「城府より、牛窓湊に至る道」、吉備温故秘録(以下「吉備温故」)では「牛窓港に至る六里二十八町」とある。
 「沖新田東西之図」(以下「東西之図」)には「牛窓道」とある。
 「岡山県歴史の道調査報告7」(以下「調査報告7」)には、『岡山城下から牛窓港に至る、六里二十八町の道程を「牛窓往来」といった。』とある。
 牛窓側からはおそらく「岡山道」などと呼ばれていたと思うし、郷土史の資料では「牛窓街道」と書いたものもある。このサイトでは、調査報告7の記述に従って「牛窓往来」とする。


経  路

17世紀頃

 「光政公御代中 備前備中道筋並灘道船路記」に、勅旨村から西大寺、西大寺から牛窓に行く小道が記述されている。
 調査報告7p2にも寛永年間(1625)の「備前国九郡絵図」を参考にして、『岡山城下から山陽道を東へ一里、勅旨村の所に分れ道があり、「邑久郡道」と呼んでいた。』とある。
 「光政公御代中 備前 備中 道筋並灘道船路記」が著わされた正保四年(1647)頃は、牛窓へは西国街道(山陽道)から分かれていく道が一般的だったようだ。

18世紀以降

 元文四年(1739)に成立した「備陽国志」及び寛政十一年~享保年中(1799から1803)に書かれたと推定される「吉備温故秘録」では

 岡山から門田村-湊村-圓山村-倉富村-倉益村-沖新田-金岡新田-金岡村-(吉井川)-新村-乙子村-神崎村-幸田村-邑久郡下阿知村-上阿知村-千手村-鹿忍村を経由して直接牛窓に向う道

が『官道』と記述されている。
 調査報告7の地図の(小橋から分岐し平井を回って倉富へ回る道を除く)主要な部分は、この経路を現在の道に比定していると考えられる。
 この道筋は岡山城府からまっすぐ牛窓へ向うと言っても良く、陸路としては最短ではないだろうか。牛窓港の重要性が相対的に下がる明治以降までは官道あるいはそれに準じる幹線だったと思われる。

 ただし、西国街道(山陽道)からの道がなくなったわけではなく、岡山から牛窓へ直接行く道が整備されて、そちらを岡山藩の(つまり岡山城府からの)官道とした、ということだろう。

牛窓往来に関する古記録


道筋の変遷について

 備陽国志が「倉益村・沖新田・金岡新田」と記述する沖新田の道筋を吉備温故では「沖新田四番沖田宮前より、五番川内清内橋を渡り、六番七番」と詳しく説明している。
 この説明に従って道筋を拾うと、沖元と倉益の境を沖田神社まで下り、清内橋を渡って、六番--七番と進むことになる。

 調査報告7の地図では、清内橋を渡らず、より上流の堀替橋を渡って、砂川北岸を東に進み、途中から現在の砂川橋の東にある甚兵衛橋で砂川を渡って、金岡新田・金岡と進んでいく。この道が備陽国志の時代の道筋であるならば、元文四年から享保頃までのあいだに、官道が変わったということであろう。

 調査報告7の地図に描かれた道筋がどの史料に基づくものか同書には書いていない。複数の史料とその記述が列挙されているだけである。
 備陽国志の示す道筋は地名(村名)を順に並べており、具体的な道筋は不明である。しかし、調査報告7の地図と矛盾する部分がないので、これが備陽国志のいう牛窓港への道であるとした。
 備陽国志が沖新田で示す清内橋を渡る道筋は調査報告7の地図にはない。説明も、第一章の冒頭で「沖新田の宮道を金岡に出て」と一行触れるが、具体的な道筋を解説する第二章ではまったく出てこない。

 吉備温故の官道下で記述された道筋に関する調査は自分達で行った。幾通りかの考え方が浮かんでは消えたが、最終的に東西之図の記述を元に仮説を立てた。それに従って、次の道筋を吉備温故が記す沖新田の道筋とした。
「牛窓往来(清内橋回りの検討)」参照。)

  1. 沖新田八十八ヵ所霊場七十三番札所の角を南下し、東用水のところから君津の常夜燈を経て、金岡まで進む区間は備陽国志と吉備温故の両方の時代で牛窓往来(牛窓道)であった。
  2. 東西之図が描かれた文政元年(1818)頃、百間川の土手を遡上し、砂川の南岸を東に進む道が牛窓往来(牛窓道)であった。
  3. 沖元から南下し、沖田宮の前で清内橋を渡るという吉備温故の記述は、経路を示したものであり、清内橋からは、上記二筋の道を経由して金岡へ至った。

 一度書上げてチェックしていたら、考え方を変えないといけないような資料が出てきて書き直し・・・、という作業を繰り返したので、当サイトも何度も視点や表記が変わりました。これまでに閲覧された方が居られたらお詫びします。
 また上記道筋は現在把握している情報と実際の歩行とによる推論の結果です。ある程度自信を持っていますが、管理人の力量は大したことありません。閲覧できた史料も限られています。客観的には推論の一つという程度です。

 金岡から牛窓まで大きな変化は見当たらないように思える。ただし、沖新田周辺の変化を追うことで力が尽きて、検証が不十分だった可能性もある。機会があれば検討したい。

 これとは別に、調査報告7の地図には「小橋から南下して平井を経由する道」が描かれている。この道筋は、少し異なった道筋の場合もあるが、「岡山の街道」「岡山県大百科」など近年刊行された資料に「牛窓往来」として取り上げらていることが多い。だが、江戸時代の地誌などでこの道筋に関する記述は見つけることができなかった。
 歩いてはみたが、同地図の主要な部分が示す備陽国志や吉備温故の官道と異なり、時代背景や利用状況はほとんど分らなかった。
(参考: 牛窓往来(平井回り)


起 点

 岡山を通過する往来の起点も時代とともに変遷したようだ。このサイトでは吉備温故の「官道下」あるいは[栄町]の記述を元に、千阿弥橋跡(現表町三丁目)とした。(ただし、標題部の左の写真は復元された京橋横の里程元標である)

 東へ延びる往来の出発点を森下町口のあった森下町とする資料もあるが、東西南北に放射状に展開する官道全体を見るときには不便なのでとらなかった。

 牛窓側の起点は調査報告7及び吉備温故の両方とも明確に記述されていないが、漠然と牛窓湊を指しているように思える。
 牛窓郵便局の辺りがかっての湊であるようだが、現状はヨットが目につく小さな港で、おしゃれなホテルはあるが、これといった記念物はない。
 関町に牛窓道路元標があったということが「牛窓風土物語」などいくつかの資料に書かれている。また、関町に説明板もある。
 道路元標であれば大正時代に各所に設置されたものであるが、明治十六年秋に撤去されたという記事が牛窓風土物語(p212)にあるので里程元標のようなものであろうか。江戸時代にそのようなものが設置されていた可能性もあるが、確認がとれていない。
 御茶屋、在番所とも建物などは残っていない。思案の結果、海と島を背景にしたその姿が印象的だったので、昭和63年に復元された牛窓燈籠堂を牛窓側の起点、この旅の終点とした。


拾 遺

 天明8年(1788)に司馬江漢が牛窓から岡山に行ったときの記録「江漢西遊日記」では、詳細な経路は不明だが、吹きっさらしの平地を歩く気配があり、また樋も出てくる。

 明治以降の経路については特に調べたり、意識して歩いたりはしていない。明治以降になって、岡山から西大寺を経由して牛窓へ行く道が再度重要になっていったと想像する。
 港湾都市牛窓の重要性が低下し、行政都市としての西大寺が重要となってきて、岡山--牛窓、ではなく、岡山--西大寺、西大寺--牛窓という構造になって来たのではないか、と推測している。

 歩行後に経路を再確認する作業に費やした労力と時間は、他の往来よりかなり多かった。いろんな「牛窓往来」が郷土史に示されていた。それだけ牛窓と岡山城府(あるいは岡山市)との行き来が多かったことを示すのかも知れない。
 現在(平成29年1月)は、県道岡山牛窓線(県道28号線)が岡山市北区京橋町から牛窓港まで延びている。さらに備前市から南下する県道39号線もある。さらに岡山ブルーラインを通って牛窓へ行く方法もある。


  1. 「光政公御代中 備前備中道筋並灘道船路記」は、池田家文庫所収の古文書の標題である。
     同じ内容の読下し文が「池田光政公伝」上巻p520-に『備前国道筋並灘道船路帳』として掲載されている。「池田光政公伝」上は、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。(平成29年1月21日確認)
  2. 「備前国九郡絵図」はデジタル岡山大百科、岡山大学池田家文庫絵図公開データベースで閲覧可能。(平成29年1月21日確認)
  3. 「沖新田東西之図」は外七番、鹿之助が作成(同図による)。『蘭術測量により、一分十間で表示』。
     岡山シティミュージアムデジタルアーカイブなどで閲覧可能。(平成29年1月21日確認)
  4. 「備前国上道郡沖新田図」は作者・成立年不詳。絵図は「沖新田東西之図」とほぼ同じ。距離などの書き込みはこちらの方が詳しい。『一寸を以て百間』とある。
    岡山大学池田家文庫絵図公開データベースシステム(岡山大学附属図書館のサイト。見出しは『貴重資料』)で高解像度のものが閲覧可能。(平成29年2月4日確認)
  5. 沖新田に関する記述は「上道郡沖新田」(岡山文庫256、安倉清博著、日本文教出版、平成20年)によった。
  6. 牛窓往来に関する古記録

 

歩行記録

経路の区分と名称

歩いた道筋

 上記のように牛窓往来は幾度か変遷している。このためか、調査報告7には、変遷したそれぞれの経路の説明が混在している。
 最初は地図に基づいて、備陽国志と吉備温故に記載された「官道」と思われるものを歩いた。さらに、出典が不明な平井回りの道を歩いた。
 調査報告7に地図がない吉備温故の[沖新田]の区間を比定するために、東西之図を参考に沖元から沖田神社まで南下した。さらに、清内橋を渡り、沖新田の宮道を歩き、北部の道筋を何通りか歩いた。最後に宮道から南に下がって金岡まで歩いた。
 この複雑な状況を整理するために、歩いたそれぞれの道に仮に名前をつけた。このサイトのなかだけのものである。
 なお、歩行期間は平成28年10月7日~平成29年2月7日である。全員で歩いた日は必ず記したが、それ以外にも期間内の都合の良いときに何度か行った。

当サイトでの往来の名称

  1. 調査報告7の地図にある岡山-東山経由-倉田-沖元-堀替橋-砂川北岸-甚兵衛橋-金岡-新-(略)-牛窓牛窓の道を「備陽国誌の道」とする。
  2. 調査報告7の地図で小橋-平井-倉田-倉富の道を「平井回り」とする。
  3. 吉備温故が記述する沖元-沖田神社-清内橋-六番-七番-金岡新田の道を「清内橋回り」とする。
 前記清内橋回りの区間で清内橋を渡ったあと、
  1. 清内橋東詰から砂川方面に北上し、砂川の旧土手を東に進んで、(甚兵衛橋を渡って南下して来る)備陽国志の道と合流するものを[清内橋回りA]とする。
  2. 清内橋東詰から宮道を直進し、沖新田東西之図の三間川にぶつかって三間川沿いを北上し、備陽国志の道(沖新田東西之図の牛窓道と同じだと思われる)に合流するものを[清内橋回りB]とする。
     現在の道では、上南中学校の手前から北上し、岡山バイパス君津インターのB1トンネルから出てきた備陽国志の道と合流する。
牛窓往来経路


歩行記録概要

【備陽国志の道】

区  間  距離歩行日説 明
千阿弥橋跡~京橋~嶽交差点
4.0キロ
平成28年10月07日
8時55分--14時50分
説明1
嶽交差点~金岡(吉井川西詰)
7.4キロ
説明2-1 説明2-2
西大寺新(吉井川東詰)~太伯小前交差点
3.6キロ
平成28年10月12日
8時55分--14時50分
説明3
太伯小前交差点~一宮道標(岡山市東区宿毛)
2.5キロ
説明4
一宮道標(岡山市東区宿毛)~紺浦交差点
7.7キロ
平成28年10月31日説明5
疫神社(素盞鳴神社)~牛窓燈籠堂
2.6キロ
平成28年11月18日説明6
千阿弥橋跡牛窓燈籠堂
27.8キロ
    
京 橋※1~牛窓燈籠堂
27.4キロ
    

牛窓散歩01(牛窓秋祭り)
牛窓散歩02

 吉備温故及び備陽国志とも岡山城府から牛窓湊への距離は六里二十八町となっている。
 一里3.93キロ、一町0.11キロで計算すると、26.7キロである。歩行距離の集計との差は、以下の理由で生じたと思われる。
  1. 吉井川以外の川渡りを迂回した道(現在の橋を通過する経路で計算、吉井川は永安橋回りで距離が長すぎるので除外)で計算したため。
  2. 牛窓の起点を恣意的に決めているのでその差もあるかも知れない。
  3. yahooの地図で測ったので点の置き方で若干ずれた可能性も高い。

(補足)千阿弥橋跡(現表町3丁目)には何もない。いくつかの往来を歩いたあとに牛窓往来を歩いたので、平成28年10月07日は千阿弥橋跡には寄らず、京橋から出発した。
 しかし、吉備温故を基準にするということを方針にしたので、往来の記録としては、千阿弥橋跡から京橋を補足した。この区間を除いた京橋から牛窓燈籠堂までは27.4キロになる。


【平井回り(小橋~倉富)】

区  間  距離歩行日説 明
小 橋~倉富
5.1キロ
平成29年1月17日説明8

千阿弥橋跡牛窓燈籠堂 29.3キロ※2
※2 千阿弥橋跡--小橋--倉富=5.9 千阿弥橋跡--東山--嶽--倉富合流点=4.4
27.8-4.4+5.9=29.3


【清内橋回りA(沖元~清内橋~土手道~金岡)】

区  間  距離歩行日説 明
沖元-(清内橋)-政津
3.7キロ
平成29年2月7日説明9
政津~金岡
2.4キロ
    
計(沖元~金岡)
6.1キロ
    

千阿弥橋跡牛窓燈籠堂 28.1キロ※3
※3 沖元~(堀替橋~砂川北岸)~政津 3.0キロ 沖元~(清内橋~砂川南岸)~政津 3.7キロ
27.4-3.0+3.7=28.1

平成29年1月28日(土)にこの経路で牛窓往来を一気に歩いてみた。
 朝7時35分に千阿弥橋跡(現:表町3丁目)を出て、吉井川西岸の金岡に10時38分に着いた。その後西大寺で昼食をとり、永安橋を渡って新を12時17分に出発した。16時16分に燈籠堂下に到着した。
 昼食休憩と永安橋回りの時間(計1時間39分。昼食で入ったファミレスが混んでいたので昼食休憩が長い)を除くと、7時間2分かかったことになる。
 吉井川を船で渡ると天気が良ければ適度な休憩になって、後半の速度が落ちなかったことも考えられる。
 往復は無理であっても、出かけて行って用事をすませ、翌日陸路あるいは水路で帰岡するというのは普通にやっていたのではないか。(備忘:家を出発して帰宅まで歩数:55,713歩。歩行距離約36キロ)


【清内橋回りB(沖元~清内橋~宮道~金田)】

区  間  距離歩行日説 明
沖元-(清内橋)-金田
3.0キロ
平成29年1月17日説明9-2
金田~金岡
1.6キロ
    
計(沖元~金岡)
4.6キロ
    

千阿弥橋跡牛窓燈籠堂 26.5キロ※4
※4  沖元~(堀替橋~砂川北岸)~金田 3.9キロ 沖元~(清内橋~宮道)~金田 3.0キロ
27.4-3.9+3.0=26.5

岡山の街道を歩く
街道トップ

(参考:当サイトの道選択の基本方針


 


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歩いた人:高田、二反田、池内、衛藤(サイト管理人)
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