西国街道の名称について

 「羅城門(東寺口)から赤間が関までを歩こう」というのが我々の合い言葉だった。羅城門から赤間が関までを一つの経路として意識していたのだと思う。 そして、この区間を【西国街道】と呼ぶことにした。それが正しいかどうか調べたが、資料によってまちまちで、けっきょく曖昧なままだった。
 江戸時代の長い期間(江戸幕府樹立から幕府崩壊まで265年間)いくつかの変遷があったこと、情報の管理や伝達が人を基本に行われていたために、口コミや転写の過程で 変化したこと、街道(特に脇街道)は、名称、区間、宿などが統一的に管理されていなかったこと、さらに「古代山陽道」と江戸時代の街道とを混同して考えがちなこと、 など理由らしきものは思いつくが、どれも想像の域を出ない。
 我々はこれから歩く道を、自分たちの目標を表す言葉として【西国街道】と呼ぶことにした。  

【西国街道】とは

江戸時代、京・大坂から中国地方を通って下関(さらに九州)と往復する道は、経路、名称とも資料によって少しずつ異なるが、経路を中心にすると以下の三つの例に収斂できるようだ。
(ただし、これは経路からみた基本型で、名称はさらに多様に変化し、別名という形で関連づけられたりするのでもっと複雑である)。

 1)京都から赤間が関までを一つの経路として、全体を「西国街道」と呼ぶ。「山陽道」あるいは「中国路」とするものもある。
 2)京都から西宮までを「西国街道」と呼び、下関まで続く「山陽道」あるいは「中国路」と接続するとする。両方あわせた経路は、1)とほぼ同じである。 この狭い区間の西国街道全体を「山崎街道」とした資料、京都から山崎への区間を「唐街道」、山崎から西宮までの区間を「山崎街道」と区分する資料がある。
3)その他 西宮から下関までの経路はほぼ同じであるが、東は尼崎-大阪と続く。大阪からは東海道に続く(この場合は、山科追分を経由して、東海道 は57次になる)。

1)の例
○ウイキペディア(2014.12.06再確認):「西国街道」とは「近世山陽道の別名」であるとして 「江戸時代の道路としての山陽道は、京都の羅城門(東寺口)から下関の赤間関(あかまがせき)に 至る道として再整備されたものである。」と定義している。 (再整備云々という表現は「地図と写真から見える!日本の街道 歴史を巡る!」(資料12)の古代山陽道の項にもある。 ただし、同書は西国街道の項で京から山崎-郡山を経て西宮へ到る道であるとし、西宮から下関にいたる山陽道とつながる、としているので、 二カ所で異なる定義をしていることになる。
 ○五街道細見:(資料2)では京都から下関を行き来する街道は、【山陽道】と記載され、京都から赤間ヶ関を行程とする。ただし、【西国街道】という言葉はない。

 2)の例
○県別 全国古道辞典 西日本編(資料9)では、【西国街道】という項を設け、『京都から各地へ向かう七つの街道口の一つ、東寺口から山崎、 箕面を経て西宮で山陽道と合流する西国街道は、山崎宿、芥川宿、郡山宿、瀬川宿、昆陽宿を通り西宮までの総延長は十六里(約六十四キロ)。(中略) 山崎宿以西の街道は現在の国道一七一号線とつかず離れず、ほぼ同じルートである』と記述している。
○「近畿地方の歴史の道2 大坂2(歴史の道 調査報告集成2」(資料7)では、道の名称として『西国路は、近世に東海道の脇道として、 「山崎通(ミチ)」と呼ばれた』との記述がある(p14、通p280)。また、山崎から離れた地域で【西国道】という呼称が使われている例をあげ、 『「西国道・西国筋」の方が通りがよかったらしい。』と記述し、不統一の理由として、脇街道であったことをあげている。同書では、『街道の現状』 の項で『西国街道(山崎通)』という細目(p17 通p283)を設けて、「山崎、芥川、郡山、瀬川、昆陽、西宮」の六宿駅をあげている。
○世界大百科事典(資料10)では、【西国街道】という項目はなく、【山崎街道】の項目に『西国街道ともいう』と補記してある。
○広辞苑(資料11)では、『西国』項目内で【西国街道】の細項目を設け、『京都から西へ向かう街道。九条通りから、久世橋で桂川を渡り、 淀川北岸の高槻・茨木を経由し、兵庫県西宮市で山陽道と合する』と説明する。
 

 3)の例
○道中方覚書及び○五駅便覧(資料1)では、脇往還として【中国路】が記載されているが、西宮以東の経路が異なり、大阪へ向かう。 なお両書とも【西国街道】という言葉は見あたらない。
この混乱の理由として、(資料3)(資料4)では、幕府管理の五街道ではなく、脇街道であったことをあげている。他に「西国」の意味の変遷を混乱の理由あげたものもあった。 ちなみに国語大辞典(資料6)によれば「西国郡代」(西国筋郡代)は、九州の天領を所轄する役名であり、豊後の国日田に本陣があった。
○大阪の街道と道標(資料8)では、【西国街道 参勤交代の道】として、『江戸時代には、地方大名の参勤交代制により、京都以西の多くの 大名は山陽道、西国街道、東海道などを経由して江戸に往来していたのである』と記述する。これに続いて【山陽道(中国街道) 九州太宰府への道】 として、『大阪城大手口の東に当たる高麗橋が起点とされる』と説明する。ここでも西国街道は山崎街道であるとし、山陽路と区別している。

 その他、明確な表現を避けたものとして、○日本史広辞典(資料3)及び○日本交通史辞典(資料4)がある。 これらは、【中国路】という項目の説明に<西国街道とも。>といった補記がなされているが、独立した項目はなく、【中国路】の起点として(京都)あるいは(大阪)とし、終点として(下関)あるいは(大里・小倉)と曖昧な表現を使っている。 これは定義することが困難であるためと思われる。なお、街道の定義に関する混乱は江戸時代からあったことが、○日本交通史(資料5)に紹介されている。

(関連1)広島路を歩いているとき、広島藩内では、【中国路(あるいは山陽道)】を、【西国街道】とすることで“ほぼ統一されていたようだ” という記述を「西国街道 いのくち歴史の散歩道」の説明板で見かけた(「井口・鈴が峰魅力さがし委員会」という団体名と「平成二十一年十一月」という日付が 確認できたが、説明の根拠については確認でなかった)。
(関連2)京都及び大阪の旧街道筋に設置された説明板では「西国街道=京都から西宮」とするものが多かった。
(関連3)管理人は単独で「長崎街道」を歩いたが、資料間で名称・経路の混乱がほとんどなかった。 統一的に「長崎街道」という言葉が使われ、別名は簡単に付記されている場合が多かった。 東の起点を大里(門司)とするか常盤橋(小倉)とするか、西の起点を長崎のどこにするか、 といった相違点はあるが、経路に関しては時代的変化や分岐についても資料的には比較的整理されていると感じられた。京都-下関区間の古街道が府県単位でとらえられる場合 が多いのに比し、長崎街道が街道全体でもとらえられることが前者より多いこともその理由の一つだと思われる。
(関連4)「備前道筋並灘道航路記」(岡山大学池田家文庫 マイクロ目録では標題は「光政公御代中備前備中道筋【並】灘道船路記」である。マイクロフィルムで見る範囲では、一つの箱に備前と備中と書いてある。)では、大道筋の第一に西国海道筋とある。岡山でも西国街道と呼ぶことも多かったようだ。

参考にした文献
(1)五駅便覧(ごえきべんらん):日本交通史事典によれば「江戸幕府の道中奉行所において、職員が執務必携として編纂したもの」である。 「五駅弁覧」という書名の別系統のものもあるということであるが、管理人が調べたものは、駒澤大学近世交通史研究会発行のものである。
道中方覚書:近世交通史資料集10収録。
(2)五街道細見:岸井良衛編、青蛙房、確認したのは初版(1959)。2014年現在新装版が刊行されている。
(3)日本史広辞典:同編集委員会編、山川出版、1版(1997)
(4)日本交通史辞典:児玉幸太編、吉川弘文館、1992
(5)日本交通史:児玉幸太編、吉川弘文館、1992。主要な脇街道(p207)の項に『享保三年(一八〇三)道中奉行井上利恭(としやす)は、中国路 の始宿と終宿、中国の国々の名前に関する問い合わせに対して、国名は丹波から長門までの十六カ国としながらも、宿次については「何国何之駅より 何之駅迄を中国路と相唱候哉、右体名目差極候ては難及挨拶候」と挨拶している』という記述がある。
(6)国語大辞典:尚学図書編、小学館販売、1版(1981)
(7)近畿地方の歴史の道2 大坂2(歴史の道 調査報告集成2) :服部英雄他編、海路書院、2005年
(8)大阪の街道と道標:武藤善一郎 著・発行、サンライズ出版販売、改訂版(1999年)
(9)県別 全国古道辞典 西日本編:みわ明編、東京堂出版、2003
(10)世界大百科事典:平凡社、改訂版(2006)
(11)広辞苑:新村出編、岩波書店、5版(1999)
(12)地図と写真から見える!日本の街道 歴史を巡る!:街道めぐりの会編著、西東社、2014
(12)光政公御代中備前備中道筋【並】灘道船路記作成者等不詳、池田家文庫(岡山大学附属図書館所蔵。マイクロフィルムよりコピー)

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