瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌

【解読文頁一 補注】

[一]「午后六時頃」:午前・午後という表記が定められたのは明治五年の「太政官布告三三七号」による。

[二]「山田陽三郎等京都ヨリ着ニテ」:山田陽三郎は、岡山藩士山田市郎(市郎左衛門)のことと思われるが、同人の奉公書(池田家文庫 資料番号D3―2689)によれば、慶応三年末に長州へ使者として趣き、同四年正月元日に宮市宿を出て、翌二日に三田尻から薩摩藩の蒸気船で岡山に帰っており、帰着は四日とある。五日に伏見での戦闘の報を受けて、京都に帰るよう指示され、六日に中条権左衛門を同道して、京都に向けて出発。これが正しければ、この文章には矛盾がある。片上で日置隊と会ったのは別の人物ではなかろうか。
 なお、『史料草案』巻弐拾壱(池田家文庫 資料番号A7―34)正月三日によれば、「同日、目下之形勢為御注進河崎栄次 [高木右門/組大組] 急輿御国江出立」とある。時間的には、河崎のほうが辻褄があう。

[三]「日置忠」:日置帯刀の後名。明治十六年五月の日付のある『岡山藩家老日置忠自筆御用書上』(神戸市立博物館蔵)ではこの名前を名乗っている。

[人物]
日置帯刀:岡山藩家老。家禄一万六千石。西宮警衛の一隊を率いて東上中の慶応四年一月十一日、神戸で外国人と衝突した。その後謹慎。  ●瀧善三郎:日置家家臣。衝突時、五人扶持、兄源六郎宅に同居。西宮警備のため、日置帯刀に率いられて東上。神戸で、外国人と衝突した際、「発砲を号令した」として、二月七日に切腹を命ぜられた。この時、日置家で百石・馬廻りとされた。また、岡山藩より五百石で召し抱えられることが約される。二月九日切腹。享年三十二歳。  ●山田陽三郎:山田市郎(市郎左衛門)。岡山藩士。判行格、国事用兼役。命ぜられて長州に赴くなど国事に奔走した。岡山藩士の役職・石高は「池田家文庫 マイクロフィルム目録データベースシステム」、「同諸職交替」、各人奉公書などによった。  ●篠岡八助:日置家表小姓。瀧善三郎切腹の際、介添。日置家臣の役職・石高は特に記載がない限り「慶応四年侍帳―家中礼席順次録」(『御津町史』頁一一二九―一一三五)による。養子となり日置家中の瀧家を継いだ猛水の名前があるので、事件後の記録である。一応の目安として参照する。 ●寺田竹三郎:日置家給人。 ●下田村の民之介:寺田竹三郎の鉄砲持ちとして西宮警衛隊に参加。衝突時捕虜となり、外国側からの詰問状を持ち返らされた。彼のことは、イギリス外交官サトウの記録にも出てくる(『一外交官の見た明治維新』下、頁一三一―一三二)。また、この時代、多くの農民が陣夫として徴用された(『岡山県の歴史』頁二七一―二七二)。

[事物と地名]
藤井駅:西国街道(山陽道)を岡山から東へ進むときの最初の宿駅。  〇片上:藤井から四里二丁。瀬戸内海の有力な港でもある宿駅。  〇片島:長州萩藩や備前岡山藩などは参勤交代の際に利用していた。司馬江漢なども宿泊した。 〇御着:東の加古川宿から三里、西の姫路城下から一里である。 〇大蔵谷:大蔵谷村を東西に貫く山陽道沿いに発展した近世の宿場町。南は街道筋のすぐそばに迫る。幕末に開削された西国往還付け替え道の分岐点であった。 〇兵庫:瀬戸内屈指の湊町であり、宿駅であった。享保期には神明町・小広町にかけて本陣五軒・旅籠三十一軒があった。後に瀧善三郎が待機する脇本陣桝屋長兵衛方、切腹した永福寺もこの一帯にあった。 〇津高郡金川村:旭川の中流部で宇甘川との合流点に立地。家老日置氏の陣屋が置かれ、ここを中心に知行地があった。 〇下田村:日置家の所領で、金川の西に位置する。