井上金藏日記抜萃

概要

井上金藏日記の清書の表紙  日記とあるが、この竪帳の内容は澤井権次郎の「兵庫日記」のような個人の記録の抜書きではない。神戸事件で出された布告や達しの写しである。
 内容的には、「復古記」および「大日本外交文書」などに掲載されたものと重なるものがほとんどだが、謹慎に対する藩内の通達は興味深い。
 最後に『神戸事件回顧展』のものと思われる出品票のようなものが入っている。

 本竪帳(資料番号S6-126)を池田家文庫マイクロフィルム目録データベースシステムで検索すると注記に『草稿』とある。
 しかし、対になる「[井上金蔵日記ノ内神戸事件書抜]」(資料番号S6-125。表題はなく目録を採るときに内容から記述したものと思われる)には、かなり朱書がされており、本竪帳(資料番号S6-126)ではその部分も墨書きされている。このことと、上記出品票の存在をもって本竪帳が清書ではないかと推測している。
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 なお、以下、本竪帳(資料番号S6-126)を『抜萃』、表紙のないもの(資料番号S6-125)を『書抜』とする。
 書抜に朱書しているものは、本来の「井上金蔵日記」には書かれていないとおもわれるが、朱書が墨書きされた抜萃ではその区別ができない。書抜との比較しながら読む必要がある。今後、書抜の画像も公開する予定である。

作者及び制作年月日

 原作者は井上金蔵であろうと思われるが、書抜および抜萃とも転記者および転記年は不明である。

【池田家文庫マイクロフィルム目録データベースシステムの情報】
分類名 国事維新(雑) S6 資料番号 S6-126 リール番号 TSF-013

【井上金蔵について】
 本書の原本を記述した井上金蔵は「諸士勤書摘録」(池田家文庫。資料番号D3-3129)を参照すると、軽輩ではあるが学校関係の業務に携わる家に属する者であったようだ。
 初代井上浪が学校裏門番人になったのが岡山藩に仕えた最初である。幕末から明治にかけて活動したのは三代と四代の井上金蔵である。四代井上金蔵が養子になったのが、嘉永五年であるが、三代も明治2年になって学房生教授を勤めている。ただし、慶応3年に『老年ニ付御楽人世話焼御免』とあるので、その頃には、四代井上金蔵に活動の中心が移っていたのではないか。
 四代井上金蔵の出自は御野郡七日市村筬之介厄介人黒田金藏とある。安政4年から学校付軽輩として二人扶持を給されている。
 慶応3年正月に『学房生取締役並教授助』に任命されており、明治元年5月に『両谷通勤見届役』になるまで、その職にあったようだ。
 池田家文庫マイクロフィルム目録データベースシステムで『井上金蔵』を検索すると、5件の情報が出てくる。奉公書と前記「諸士勤書摘録」を除けば、他は神戸事件関係のお触れや通達を記した抜萃である。井上金蔵日記の全文は見当たらない。このため、学房生取締役並教授助の記録したもののなかに神戸事件の達し類があった理由がはっきりしないが、岡山県記録資料館所蔵の浅田家資料などを見ると、その時代の良書とされるものや、仕事に関係するものを転記して収拾することも珍しくないようだ。


 「瀧善三郎正信を中心とする 神戸事件回顧展記念帖」によると同回顧展は神戸史談会主催・大阪朝日新聞社神戸支局後援により昭和13年6月21日から26日に行われた。会場は神戸大丸であった。焼失した永福寺の写真などが掲載されている。
 記念帖の出陳目録中に「井上金蔵日記抜萃」があり、『事件の発端より二月十六日備前藩の触書迄。』と説明している。

解読と口語訳

【解読】
 在間宣久、池内博、衛藤廣隆、奥村眞美子、田中豊
【文責】衛藤廣隆


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