旧森村は六甲山地南麓緩斜面の山麓寄りに位置した。南端部を山陽道が走る。(中略)氏神は稲荷大明神と北畑家村の牛頭天王社(現保久良神社)、寺院は一向宗浄称寺(現浄土真宗)がある。(後略)浄称寺は寛永二十一年(1644)に木仏・寺号を免許された。
村域は[現]東灘区森南町一-三丁目・森北町一-七丁目・本庄町一-二丁目・本山町森
[現]は、引用文献刊行時:1999年)
【参考資料】
日本歴史地名大系二十九巻一。平凡社、1999年刊。頁182。
浄称寺の西に、森稲荷神社が隣接する。その西を北に向う道は『魚屋道(トトヤみち)』と呼ばれ、六甲横断道路として海岸地方の物資を有馬方面に運搬する重要な道であった。
日置隊は打出陣屋から二十三日夜までに森村に移転した(津田孫兵衛書簡)。帯刀は森村浄称寺を本営とし、他の者は村役人の家や宿を営んでいた家に分宿した。岡久渭城は「明治維新神戸事件」で瀧善三郎は森村志井六兵衛方に逗留していたとする。このことは前記浄称寺の閻魔帳の記述でも確認できる。
そして、二月七日に森村を出て、深江村正壽寺に向う。魚屋道を海岸に向ったと思われる。
『(前略)同人家来滝[ママ]善三郎今日兵庫表へ指出候ニ付、私家来召連罷越候処水野主計ヨリ申越ニ付則深江村正寿寺ニ而家来佐藤左源次請取(以下略)』(池田貞彦奉公書)
写真左側は森稲荷神社。右側が現在の浄称寺。
森村の共同墓地には、瀧善三郎の墓碑があったという。共同墓地は現在住宅街になっており、墓碑も分らない。地域の地誌である「本山村誌」が編纂された昭和二十八年当時でも不明であったようだ。
昭和四十五年、神戸市の道路拡張工事に際し、阿弥陀如来などの石仏が出土した(現地の説明碑)。芦屋市三条町と神戸市東灘区森北町の境界にそれらの石仏が安置されている。同墓地の可能性がある。
(写真はいずれも平成三十年三月十二日撮影)
【参考資料】