慶応四年神戸事件を考える

六湛寺跡

 海清寺西にあった禅宗寺院。京都東福寺の末寺で宝陀山と号し、六湛禅寺とも言った。(中略)天正6年(1578)には荒木村重の反乱に巻込まれて焼亡するなど、戦国乱世に寺勢は衰えていった。貞享元年(1684)の西宮浜地図(西宮市史)には広大な境内林のなかに茂松庵・如意庵のみが描かれ、二庵とも明治になって寺号を改めたが、如意庵は昭和35年(1960)北名次町に移転した。(ここまで兵庫県の地名/Ⅰ)

【長州藩兵の宿営】

 (前略)やがて幕府の長州再征が失敗に終わったあとをうけて慶応3年11月には武力討幕の決定力である長州・薩摩・安芸の三藩兵の東上を見ることになり、西宮地方は今度は討幕軍の重要な根拠地となった。(中略)12月1日の午後より西宮下町へ転陣した。(中略)
 西宮における陣営は、本陣(小荷駄方を含む)が六湛寺、奇兵隊が海清寺、整武隊が正念寺、鋭武隊が西安寺、膺懲隊が順心寺、第二奇兵隊が信行寺、病院が積翠寺あった。このほか、遊撃隊を昆陽口に、振武隊を打出親王寺に配置し、しばらく京都の形成をうかがったのである。(西宮市史)
 西宮警衛総督の池田伊勢は、慶応4年1月18日、御影村常順寺から如意庵へ移って来ている。(御奉公之品書上.池田貞彦)

 現在は西宮市役所や市立西宮病院が建ち並ぶ。六湛寺公園(左写真)や六湛寺川という名前に往事を偲ぶだけである。奇兵隊が宿営した海清寺は現存する(右写真)。
朱色の山門がまばらに木の向こうに見える。 山門の横に山号の石柱。


                                      

【参考資料】

  1. 兵庫県の地名/Ⅰ[日本歴史地名大系二十九巻一]、平凡社地方資料センター編、平凡社、1999年刊。ページ252。
  2. 西宮市史/第二巻、魚澄惣五郎編、西宮市、昭和35年刊。ページ996から997。
  3. 御奉公之品書上.池田貞彦。岡山大学附属図書館所蔵、池田家文庫、資料番号 D3-9
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