芦屋村の東に接し、六甲山南麓から大阪湾へかけての段丘・沖積地に位置する。村の中央部を宮川が貫流、南部を山陽道が横断する。
文久元年(1861)3月打出村字広野に長州藩打出陣屋が設けられた。屋敷2町余、総敷地5433坪であった。
翌2年6月には久留米藩が代って警備に当たったが、同8月には龍野藩が、ついで元治元年(1864)8月には勢州藩がひきついでいる。この間、文久3年4月には将軍家茂がみずから摂海の巡視を行っている。(中略)巡視の間長州・龍野両藩に防備を命じており、前記の如く交代が行われている。(中略)打出陣屋の必要性もこれに伴い減退し、その担当は慶応元年加賀大聖寺藩、翌2年伊予大洲藩と変り、明治元年(1868)四月には備前藩―久留米藩から尼崎藩へ引きつがれ、明けて明治2年3月の下旬、あわただしい時代の中にその姿を没し去ったのである。
池田家文庫(岡山大学附属図書館所蔵)に摂津国西ノ宮図附打出陣屋絵図がある。警衛を担当するに際し作成した可能性がある。
打出陣屋は阿呆親王塚古墳(阿呆親王墓)の東側に設置されていた。現在、阿呆親王塚古墳は宮内庁管理で入れない。阿呆親王は、長州藩主毛利氏の遠祖だとされる。
陣屋跡は団地などになっており面影はまったくない。
地図でマークしているのは阿呆親王墓。その東に打出陣屋はあった。
西国街道の道筋北側に、案内の石碑がある。
【参考資料】