慶応四年神戸事件を考える

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Ⅵ.妥結

1.一月十九日~二十日(陽暦2月12日~13日)

(1)新政府の方針決定(一月二十日)

 『復古記』に収録された越前福井藩主・松平春嶽の記録によれば、新政府の幹部である参与らが廟堂(※1)に集まって議論したが結論が出なかった。この資料を読む範囲では外国側の要求は読み上げられたようだが、岡山藩側の見解に言及されることはなかったようだ(「岡山藩士日置帯刀従者於神戸 外国人に対し発砲始末」などに基づいた推定では、副総裁・三條実美には「忠尚申状」が提出されていた可能性がある)。
 さらに具体的に万国公法のどの部分に該当するかなどの説明があった気配もない。
 『伊達宗城在京日記』には、万国公法での処断に各藩藩士から選ばれた下参与は全員賛成とある。
 深夜に至り、岩倉具視が堂上方一人一人に問いただし、「万国公法」によって処理することが決まった。その後の展開を見ると、そのことは外国公使団の要求する二条件をそのまま受け入れることを意味するようであった。
 当初、すぐに神戸にいる東久世に知らせようとしたが、天皇の初めての裁断になることや岡山藩が承服しない場合に討伐する可能性(※2)などが指摘され、翌朝になって天皇の親裁を得た。その後、兵庫にいる東久世に通知し、同時に岡山藩に伝えた。(『復古記』巻二十三、明治元年正月二十日。頁667)
▽資料・復古記

〇決定の会議の進行
『復古記』と伊達宗城の記録では若干雰囲気が異なる。参考のために続けて記す。

『復古記』巻二十三、明治元年正月二十日。頁六六六
【要約】
 議事は、十九日に始まった。外国事務総督伊達宗城と、外国掛り後藤象二郎が大坂から上京し、趣旨説明をした。議題は外国公使の次の要求への対応策である。
一、天皇が書面で謝罪し、同様のことを今後起こさないと約束すること
二、暴行するよう指図した役人を外国人が検証している前で処罰すること
なお、回答は二十二日までに必要である。

 外国公使団からの要求の翻訳書を公卿や諸侯の上参与の大声で読み上げ、各藩から選ばれた武士の下参与が意見を言ったが、大同小異で「帰スル所、萬国公法ニ被任ヨリ外無之トノ趣意ナリ」とのことであった。下参与が退席して、上参与が時間をかけて議論しても結論が出ない。
 その後、下参与が再度会議に加わって、結論を促した。結局「岩倉殿ヨリ堂上方一人ツヽ質問ニテ、漸く決シ、下参与ヘハ何レモ建議之通リ、萬国公法ニ被任段被申聞」て、決まった。
 大坂に至急知らせようとしたが、天皇親政の最初なので、上奏して裁許を頂かなければ岡山藩が言うことを聞かない可能性もある、ということになった。深夜(子半時)に三条中納言(三条実美ヵ)らが参内し、朝になって親裁を得た。外国公使達の望む通りになったことを、急飛脚を以て東久世に伝えた。このことは二十日になって岡山藩重役を太政官に呼び出して伝えた。一部略すが、岡山藩が従わなければ、「御征伐之御含ニ有之」との評議もあった。


「御手留日記 伊達宗城」(『改定 維新日誌』七巻、頁四十)
〇東久世応接ニ付、各国公使より差出候書面和解、三條へ出し、一座評議、大蔵此方如申出、超絶御処置可然御処置可然申立候、下参予皆同意、堂上中山、中御門、少々異論、終ニ決議、三條参内 九過也
 伺処 叡慮も不被得止候故、如衆評ニ被仰出候、七時帰ル

『伊達宗城在京日記』頁六八一―六八二と同文

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『復古記』巻二十三、明治元年正月二十日(原文画像)三角マーク

(2)新政府、岡山藩へ公法による処断を通知、併せて日置帯刀呼出、禁足を命ずる(一月二十日)

 方針決定により、新政府は岡山藩へ「公法による処置」を通知し、責任者として日置帯刀を呼び出し、禁足を命ずる(「屋敷へ預け置く」)。(※3
 日置帯刀は、この決定に失望したようだ(※4)。この前後、日置帯刀は、十九日に大坂を立ち、西宮で池田伊勢と協議し、同所に宿泊した。二十日に打出陣屋に寄ったあと、晩七つ時頃、森村静称寺へ着く(『御奉公書上 日置英彦』八。「津田孫兵衛書簡」『御津町史』頁1147。池田伊勢と協議したという記述は伊勢の奉公書にはない)。※森村と静称寺について三角マーク
 実際に出頭するのは、一月二十二日である。

【補足】

 日置帯刀が西宮警衛の前線基地である打出陣屋によったあと、森村へ移動したのは、最初打出陣屋にいた日置隊が(不都合のかどがあって)森村へ移動させられたからである。これも政府の決定を受けたためと推測する(「津田孫兵衛書簡」『御津町史』頁1147―1148。同書によれば二十日夜までに移動が終わっている)。[二十三日としていましたが、文書の読み間違いでしたので訂正しました。]
 静称寺の伝承によれば、日置帯刀は静称寺へ宿営、隊士は村内に分宿していたという。同村「志井六兵衛」方に瀧善三郎が宿泊していたという資料(『明治維新神戸事件』頁156)があり、また同寺の伝承によれば「志井六兵衛」は同村で宿屋を営んでいたという。

 関係資料によってそれぞれの状況を見る。なお、津田孫兵衛は衝突時士組を率いていた日置家家老。『津田孫兵衛書簡』は国元に待機していた同じく家老・板津喜左衛門に宛てた手紙。『御津町史』にも掲載されているが、同書では「酉の宮」となっているので、金川町史から抜粋して引用した。
▽資料・復古記/史料草案/日置帯刀奉公書

『復古記』巻二十三、明治元年正月二十日(頁六六六)
家老日置帯刀、摂州神戸村通行之砌、外国人ト及砲戦候始末、公法ヲ以テ、朝廷ヨリ御処置可有之旨御決定候間、其段相心得可申、尚御処置振之儀ハ、追テ可被及御沙汰候事。

『史料草案』巻二十一
正月二十日、太政官代ヨリ日置帯刀早々上京可致、且同人
上京候ハヽ、其屋敷へ預置、直ニ相届可申旨、被申聞及
左之趣被達
家老日置帯刀、摂州神戸町通行之砌、外国人ト及砲
戦候始末、公法ヲ以朝廷ヨリ御所置可有之旨
御決定候間、其段相心得可申、猶御処置振之義ハ追
而可被及御沙汰候追

『御奉公書上 日置英彦』八
一 同日十九日大坂出立仕同夜於西ノ宮池田伊勢と
  談合之儀御座候ニ付同所ニ止宿仕翌廿日森村
  宿陣江罷帰候事

『津田孫兵衛書簡』 『金川町史』頁三六四―三六五
 辰正月廿四日西の宮より早朝達
(中略)一昨十九日西の宮駅迄御帰鞍被遊(中略)夫より御宿陣森村静称寺へ晩七ッ時頃御着被遊候 (中略)(さて)御留守中御陣屋へ御人数御差置に相成候得共、御不都合の廉(かど)も有之、前文の通り森村へ御宿所替に相成、昨晩迄に惣御人数引越申候義御座候、此処は尼ヶ崎領に而西の宮より一里斗り下に而、往還の北、山へ寄居申候場所に御座候(以下略)
( )内はサイト管理者補記。

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 『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』については本サイトの日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書3三角マークを参照。

(3)既締結条約の遵守を外国公使に通達(正月二十日)

 旧幕府が締結した条約を遵守することを、六ヵ国公使に通達。これは第2回の会議で外国側が要求したことに対する対応である可能性が高い(第2回会議(正月十七日)
併せて外交関係の責任者を通達した。
 なお、ドイツ公使ブラントの回顧録によれば、この文書は翌二十一日に、彼らの要求に沿うと回答した通達の後に伝達された可能性がある(「議定小松宮嘉彰親王」が「今までに[条約によって]負った諸義務を厳守するよう命令発した」文書が通達された。『ドイツ公使の見た明治維新』頁140。)が、文書の日付に従ってこの日に記載した。

▽資料・大日本外交文書
『大日本外交文書』第一巻第一冊 頁二七二―二七三

 一一二 外国掛総督(外国事務総裁)仁和寺(東伏見)宮嘉彰親王ヨリ亜米利加弁理公使宛

 条約ヲ守ルヘキ旨ノ勅命及外務職員通知ノ件
今般天皇自ラ条約ヲ取結バレ候ニ付而は、以来是迄通之条約総而遵守可致旨蒙勅命候、且拙者儀外国掛総督ニ而、外ニ三條前中納言、東久世前少将、伊達伊予守等右之副ニ相成候間、此段為御知申入候以上
正月廿日
 亜米利加弁理合衆国ミニストルレシテント
ア、ル、ヒーハン、ハルケンホルク 閣下
 読点を入れるなど若干修正した。

 内容及び日付が同じプロシア公使に送られた文書があること、また「右神戸表ニテ六国公使ヘ相達」とあり、六ヵ国公使に送られたであろうとの原書編者の注がある。

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(4)岡山藩からの事件の報告書が伊達に届く

「〇備前より、神戸一條、異人より理不尽之義有之、互に発砲云々届有之」(『伊達宗城在京日記』頁682。旧字よりを「より」に改めた。)
 なお、『復古記』『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』では、岡山藩が伊達に提出したのは21日。21日を参照。

(5)その他

①[十九日]ロッシュ、江戸で徳川慶喜と会談
 『ドイツ公使の見た明治維新』(頁139)
②[二十日]岡山藩、松平の名乗りを止め、「池田」に戻すことを太政官代へ届け出る。
 『史料草案』巻二十一、正月二十日


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補注

※1.廟堂
 会議が行われた場所は確定できていないが、『東久世通禧日記』の記述(頁521)の表現を借りて「廟堂」とする。

※2.岡山藩が承服しない可能性
 『復古記』では廟堂の会議で「備前侯モシ奉命無之候得ハ、御征伐之御含ニ有之」という論議がありったことが記されている。また『伊達宗祇在京日記』では十八日に参与・後藤象二郎が「備前にて不奉命候はゝ、御征伐の外無之事」という意見を述べたことが記されている(頁679)。

※3.日置帯刀の呼び出し
『復古記』では「十九日」に日置帯刀が呼び出され(「〇備前藩ノ老臣日置忠尚ヲ召ス。」『復古記』巻二十三、明治元年正月十九日。頁六五二)、翌「二十日」に岡山藩(京都留守居)への通知がなされている。また、『大日本外交文書』第一巻第一冊一〇八でも呼び出し状の日付は十九日である(頁268)。
 一方岡山藩側の記録である『史料草案』では、日置帯刀への呼び出し・禁足と公法での処断が二十日に同一文のなかで記されている。
 『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』では二十日に、岡山藩京都留守・澤井宇兵衛が警報事務総督・長谷三位(長谷信篤)より通達されている。

 二つの資料の日付の違いを検討したが、帯刀への呼び出しは二十日とした。
 廟堂の会議は、外国側の要求を説明し、対応を検討したものであり、事実を究明するものではなかった。そういった場で帯刀の証言は必要ない。むしろ、処分の方針が決まってから、それを伝えるために日置帯刀を呼び出したと判断した。よって一連の通達は『史料草案』の記載に従った。
 なお、謹慎命令は後二月二日に正式に通達されるので、ここでは禁足とした。また、これらの通知には岡山藩主などの名前は見えず、日置帯刀への通知である。

※4.日置帯刀の失望
 一月二十九日、打出にいたと思われる日置家家老・津田孫兵衛は帯刀に呼ばれ、急遽京都に赴く。そして、帯刀から思わぬ朝議の結果を聞く。「以之外之朝議ニ相成深御心配之段被仰聞(以下略)(「板津武司、津田孫兵衛差出しの書簡」『御津町史』頁1149-1150)