慶応四年神戸事件を考える

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Ⅶ.岡山藩への問責

1.一月二十九日~二月二日(陽暦2月22日~24日)
(慶応四年正月は二十九日まで)

 東久世が神戸を去ったあと、事態はあまり動かなかった。このことが外国公使団を憤慨させ、神戸に残って外国公使団と折衝していた伊藤は焦って、あちこちに働きかけた。外国側の不満をなだめるべく、新政府は事態の収束に向かって動き出す。
 岡山藩に対し、公使館を狙って発砲したか、との問責がなされた。続いて、発砲号令の者を切腹させること、日置帯刀を謹慎させることの二点の命令が下された。
 また、岩倉具視から岡山藩に、事態の進捗を促す「諭解」(説諭書)が下される。

 外国事務掛として神戸に残った伊藤俊介は、事態の進捗のために、東久世あるいは伊達が神戸に来ることを要請する。
 そして、岡山藩は西宮警衛の責務を解かれる。

(1)弾丸を公使館に向けて飛ばせたかという問責と回答(正月二十九日・二月一日)

 兵庫(神戸)での事件について、外国人が「公使館に向けて発砲した」と言っているが、岡山藩からの報告ではその辺のことがわからないので、もう一度詳しく文書を以て報告するようにと、新政府から指示があった。(『復古記』)
 岡山藩では、翌二月一日付けの日置帯刀名文書で、「自分は先手の銃隊と離れていたので、詳しく目撃できていません。もともと思いもつかない事態から起きたので、公使館を襲撃するなどとの考えは毛頭ありませんでした。しかし、その場の勢いで自然に弾丸が飛んでいったかどうかは分らない、と事件に関係した隊長達から報告がありました。」と回答している。
 通達、回答の文書は二条城でやりとりされたようだ。※1

 この通達は、衝突した正月十一日にサトウと会った片野十郎が、サトウに詰問された内容が反映されたと思われるが、唐突に感じられる。(※2
 この後、新政府から岡山藩への問責は「外国人との砲戦」(『復古記』巻二十三、明治元年正月二十日、頁666他。)から「公使館への発砲」という表現に変化する。「宇内の公法(万国公法)」による処理を明確にするためか。

▽復古記

『復古記』第一冊、第二十七巻(頁七七八―七七九)

[通達]
〇正月二十九日達書
備 前
兵庫港発砲之一條、外国人ヨリ申出候趣ニテハ、各国公使館ニ向テ弾丸ヲ飛候哉ニ相聞、 其藩ヨリ之書付、右之境相分不申候間、其節之始末、今一応委敷書付をヲ以可申出事。

[回答]
兵庫港発砲之一條、外国人ヨリ申出候趣ニテハ、各国公使館ニ向テ弾丸ヲ飛候哉ニ御聞込ニ相成、先日差出候書付与モ、右境相知不申候間、其節之始末、今一応委敷以書附申上候様、御達之趣奉承畏候、然ル処、右之事情ハ先般奉申上候通、先手銃隊中之儀ニテ、於私ハ前後相隔、巨細之儀目撃不仕候得共、元来不慮之事ヨリ差起候義ニテ、公使館ヲ襲撃仕候抔之考ハ決テ無御座候、乍併其場之勢、自然弾丸飛至候哉ハ難計旨、右隊長共ヨリ申出候、此段奉申上候、以上。
備前少将内
二月朔日日置帯刀

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(2)発砲命令者への割腹命令・日置帯刀謹慎命令が通達される(二月二日)

 最後通牒というべき命令が通達された。外国側が要求した二条件のうち、「発砲号令之者」を外国公使館の関係者が検証する前で、死罪にせよ、という条件を満たすためである。なお、「明日ヨリ五ヶ日ヲ限リ」という文言は、後藤象二郎から伊達宗城への一月十八日の文書に「宮御側にて応接、昨昼時迄ニ結局之書付東久世出シ、後訳候写差上候、右は五日ヲ限決答之筈、公使々々申立の通、御処置無御座候はゝ、戦争之外無之、備前にて不奉候はゝ、御征伐の外無之事」と符合する。(『伊達宗城在京日記』頁679)
※4.補足(通達と回答の日付について)

発砲命令者と日置帯刀の分離について 【訂正】  下記は、「西郷隆盛全集 第二巻」(頁三九七)と突き合わすと、パークスの意向であったようだ。
 慶応四年一月二十六日、アーネスト・サトウは医師ウイルスに同行して京都にいた時、西郷隆盛と会った。この時の話の内容を大久保に手紙で知らせており、そのなかに「日置の禁錮、隊長の処刑」が新政府の意向であったことが伺われる一節がある。
 これに対し、サトウが外国側のいう「士官」は決して帯刀のことを指しておらず、「隊長」という訳ならば異論はなかろうと答えた。これは、新政府の意向を尊重するということであろう。そして、西郷は大久保に事態を早急に処理すべきだと伝えている。(『遠い崖』6、頁251)

▽資料・復古記

『復古記』第一冊巻二十七、明治元年二月二日。頁七九〇―七九一
〇池田茂政及ヒ日置忠尚ニ命シ、外人ト神戸駅ニ争闘セシ隊長ヲ兵庫ニ押送シテ自刃セシメ、[五日間ヲ期ス]、且忠尚ニ謹慎ヲ命ス。
〇茂政へ達書二通
備前少将家来
日置帯刀
神戸通行之砌、行列へ障候由ニテ外国人へ兵刃ヲ加へ剰(あまつさ)へ逃去候亜仏人、並公使へ及発炮、理非之応対ニモ不及、如何ニモ妄動之所為不行届之至ニ候
節即、今更始御一新国事多難之折柄、深被為悩宸襟、就中外国御交際之儀ハ、御国体ニ相抱(拘ヵ)候重大之事件ニ付、宇内之公法ニ基、不損皇威、至当之筋御履行可被遊思召之処、御時節柄ヲモ不奉顧返テ御恥辱ヲ醸候儀、重畳不容易罪科ニ付、発砲号令之者、各国見證ヲ受、可致割腹旨被仰付候事
 但罪科人体明日ヨリ五ヶ日ヲ限リ、兵庫表へ護送致、外国事務掛リ之者江可申出候。
二月

備前少将家来
日置帯刀
神戸通行之節、従卒共外国人ニ対暴発、不容易所業ニ付被所罪科候、全同人下知不行届之事ニ被思召候間、謹慎為致置候様被仰付候事
二月
 池田章政家記 外務省記

(前記文書には、原文に日にちなどの補注がある※3。また、読みやすくするため変体仮名をひらがなにするなど一部表記を改めた。)

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(3)岩倉具視が処断について岡山藩京都留守居へ説諭。(二月二日)

 新政府の実権を握っていたと言っても良い岩倉具視が岡山藩と「発砲を号令した責任者」に対し、「国家のため、天皇のため、岡山藩のため、日置家のために、死んでくれ」と「諭解」を下した。

 このあと「国家のため、天皇のため、岡山藩のため、日置家のために死んでくれ」という表現は、岡山側の書類にも頻出する。

 なお、この文書は、『復古記』に収録されたものと、岡山側の資料『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』とでかなり異同がある。ここでは、岡山側の記録を記し、『復古記』の記述は注に記す。※5
▽資料・日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書

『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』(池田家文庫 資料番号 S6-128-(2))
岩倉殿ヨリ御諭解之大概
一 岩倉殿より御諭解之大概此度、神戸之一条ニ付ては、嘸々其藩一統苦心之程察申候
然ル処、於朝廷も御同様之事ニ候、就ては彼是三日も御評議ニ相成、遂ニ徹夜ニも及候得共兎角不決、最早此上は主上御叡断之外無之と存、
則相伺候処、実ニ其辺被為悩叡慮候義ニ御座候、就ては彼是事情言上も仕候上、如此御叡断御沙汰ニ相成申義ニ有之、
実ニ如此立至り候も全く先帝攘夷之叡慮、御名ニおゐて深く遵奉し居申ニ付、其旨士民迄も徹底し、彼を悪居申候処より、此度之一挙ニも立至り候義と、深く御酌取被遊、御感心之事ニ有之候、
乍併形成勢一変致居申義ハ素より承知之事ニ候得共、往古は三韓有るを知て萬国有るを不知、然ルニ当今萬国並立候上ハ同く目[注①日カ]下之民ニ有之候間、
彼之四方之国を以、我九州、四国抔之如く見申場合ニ候間、猶又其辺深酌取、国論一変可致、
扨此度当人之儀、彼之為ニ死ると思候ては如何ニも残念ニ被思候得共、実ニ皇国更始御一新之折柄右之次第ニては、如何様之大害を可醸も難計候ニ付、無拠公法を以御所置被仰出候間、
何卒天朝之為、皇国之為、次ハ備前一国、日置一家之為、右四ヶ条之御為筋を存、死を甘度段、懇々御諭解有之候事

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(4)伊藤俊介の要請(一月二十九日・二月二日)

 外国事務掛として中嶋作太郎らと神戸に残った伊藤俊介は、事件の早期解決を図って、早急に東久世あるいは伊達の下向を各所に要請した。
 事件を収束させ、各国に旧幕府との戦闘に於ける中立を守らせ、天皇へ拝謁させるためであった。

「木戸孝允あて伊藤博文書状」(一月二十九日。『兵庫県史』史料編 幕末維新1、頁586―588)では伊達の下向、「外国事務掛伊藤俊介ヨリ同五代才助宛」(二月二日。『大日本外交文書』第一巻第一冊一二六。頁301―302)では東久世の下向を要請している。
 また『伊達宗城在京日記』では、伊達が兵庫へ下る直接的な理由も伊藤の使いによる訴えに対応してである(頁704)。

(5)その他

①日置家家老津田孫兵衛、上京(二月一日)

孫兵衛義急速上京仕候様被為仰下候ニ付、翌日朝出立罷出御様子畏申候処以之外之朝議ニ相成深御心配之談被仰聞(以下略)。(「板津武司、津田孫兵衛差出しの書簡」『御津町史』頁1149―1151)。
 「発砲号令之士官」の指出しについて、京都に留め置かれている帯刀と相談のためか。

②岡山藩、西宮警衛を免ぜられ、久留米藩へ引き継ぐよう命ぜられる(二月二日)

一 太政官代御達 備前少将へ 被免西宮御守衛旨被仰下候事 二月
但久留米江申合可引払候事
『史料草案』巻之二十二、二月二日
(実際に引き継いだのは十日。東征軍先鋒を命ぜられたため。)


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補注

※1.通達と回答の文書
 「岡山藩士日置帯刀従者於神戸 外国人に対し発砲始末一巻」(『吉備群書集成』第五集、頁一二〇)によれば、二条城(慶応四年四月まで太政官代が置かれた)に呼び出した岡山藩・太郎兵衛(成田元美か)へ岩倉具視から渡された。また、同書では「刑方方御留守居」、『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』では「刑法局」からの達しとする。)
 請書は、二日に二条城において、彦左衛門が岩倉殿へ提出したとある(「岡山藩士日置帯刀従者於神戸 外国人に対し発砲始末一巻」同)。
 彦左衛門は津田弘道の通称。西洋流砲術を学び、砲術士官として約十年間海岸防備や京都守護の任に当たる。その後周旋方、探索方、外交方などを勤める。神戸事件の事後処理にも当たった。

【余滴】
 『津田弘道の生涯』によれば、衝突当時京都にいた弘道は、報告を受けて正月十四日早追いで岡山に帰り、十七日暁に岡山に着いて藩主に報告した。その夜にまた早追いで西宮に向けて出発し、十九日に到着している。途中、西宮・大坂に用事で一泊し、二十二日、京都に戻っている。
 事件が瀧善三郎の切腹で終り、津田は挫折感に打ちのめされ、多忙もあり、「夜来泥酔昼夜を弁ぜず」というほど、痛飲したという。そして、二月十一日に惣髪にした。
【参考資料】

  1. 岡山県大百科事典/下、[同]編集委員会編、山陽新聞社、昭和55年刊。頁206
  2. 津田弘道の生涯-維新前期岡山藩の開明志士-、石田寛著、吉備人出版、2003。頁168―179

※2.公使館への銃撃
 正月十一日の衝突のあと、兵庫に赴いてサトウと会った片野は、行列に無礼をした「仏蘭西マトロス」を好きに処断するのは構わないが、その後、大使館に向けて発砲したことは納得がいかない、と詰問される。
 「種々談判致候得共、何分備前暴動、甚以不相済、元来行軍へ失礼致候ニセヨ、仏蘭西マトロスノ事ニ付、其者如何様ニ致候トモ異論無之候得共、其跡ニテ各国留館へ銃撃致候段、何共不相心得」(『復古記』巻二十、明治元年正月十五日、頁590―591)

 キャリエールは船乗り(マトロス)ではなく、フランス公使の護衛兵である。外国公使団は、衝突現場に居た兵士を含む各国人に事情聴取をし、本国へ報告している。そこには、彼がフランス公使の護衛であることが記されている。しかし、他にも「船員」としている資料(当時の英字新聞『ジャパン・クロニクル』の記事、参照は『神戸事件』頁134)があるので、この時点ではそれが通説になっていた可能性がある。なお、後の回顧録では、「Americansailor」と記す("A diplomat in Japan"p.347)。
 仮に船員だと思っていたとしても、フランス人の身柄を云々する権限が、イギリス外交官、それも領事でもない日本語書記官にあるとは思えない。自信家のサトウがパークスに全面的に忠実であったとは思えないが、人事権を持った上司の了解なく、そのようなことを本気で言うとは思えない。
 サトウにしろパークスにしろ、武力を背景に自国の利益を第一に考える外交官である。はったりや恫喝は手慣れたものだったに違いない。

▼管見1

 回答では触れていないが、この時居留地の南端に立つ建物が外国公使館だと日置隊が認識できたとは思えない。日置隊のみならず、ほとんどの日本人には分からなかったと思われる。
 この建物は、幕府が作った運上所(税関)であり、アメリカ・プロイセン(ドイツ)・イタリアの公使が居住を始めたのは二日前の一月九日である。それも、神戸を退散する兵庫奉行・柴田剛中に急遽申し入れて借りたものである。文書を取り交わしたようでもなく、おそらく口頭であろう。
 建物の上に国旗があるではないか、という反論があるかも知れないが、この時代外国の国旗を知っている日本人が何人いただろうか。
 運上所の利用の正当性についても議論の余地があると思われるが、日本側交渉団に最初からその意図はなかったと思われる。  

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※3.文書の表記について
 『大日本外交文書』一二七も類似の文章であるが、引用した本文(『復古記』)では、『大日本外国文書』の「外国人」が「英人」、「今日ヨリ七日を限」が「明三日ヨリ五ヶ日を限り」と、より具体的である。大日本外交文書では末尾に【編者注】があり、一二七の文章が未決草案であり、実際は『一三二ノ字句ノ如クナリシモノト認メラル』とある。一三二は岡山藩家老代池田靭負から提出された請書であり、引用した『復古記』のものとほぼ同じである。よって『復古記』の記述を引用した。
 また、同文を記載した『復古記』巻二十七、明治元年二月二日の末尾に「按スルニ」と前置きして、前記二つの文書(前記一二七と一二八に相当)は本来藩主である池田茂政に下達したものなので、「備前少将」を宛名にし「家来日置帯刀」以下が本文であるようだ、と記す。
「 備前少将
家来日置帯刀、神戸通行之節・・・」という文章になる。こちらでは藩主に対する命令となり、筋が通る。しかし、日置帯刀名の請書もあり、判断に迷う。その為、『復古記』の記述の通りとした。

※4.通達への回答について
 『大日本外交文書』明治元年二月二日に「一二九 岡山藩家老日置帯刀ヨリノ上申書」があり、「発砲号令之者罪科ニ被処候付早々可差出被仰付候條」に「御請奉申上候」と回答している。これが、本通達への回答の可能性を検討したが、翌三日に池田靫負から提出された「奉答書」に「昨二日、御達二通」とある。
 「帯刀名」で二日に受諾し、京都詰めの者が藩として翌三日に受諾するということは考えにくい。また、『復古記』巻二十七、明治元年二月二日にある、二月七日付の日置帯刀名の文書と前記「一二九」の文言が同じであることなどから、『復古記』の記述に従って、二月二日に新政府から「発砲命令者への割腹命令」と「日置帯刀謹慎命令」の二件の通達、二月三日に岡山藩からその二件を受諾する旨上申とした。

※5.岩倉具視の諭解について

 この文書は二条城で岡山藩中老(『大日本外交文書』では家老代)・池田靫負に渡された。
【補足】「岡山藩士日置帯刀従者於神戸 外国人に対し発砲始末一巻」(岡山県編)(『吉備群書集成』第五集、頁一二〇)の頭注には「朱書註 二月二日於二条城岩倉殿より池田靫負(岡山藩中老。『岡山県通史』下、頁三〇七)へ被相渡宇兵衛・彦左衛門披済(最後の文字は推察)。岩倉殿より御諭解の写。」とある。

 新政府の方針を明確に示すものとして重要な資料だと思われるが、『復古記』と『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』とでは細部は少し異なる。

 一番重要な点として、『復古記』では、「京都詰合之者、神戸表へ罷越、帯刀家来共へ御趣意之趣詳ニ申聞(中略)本人初一同甘心(感心)仕候」と、本人(発砲号令の責任者として処罰させられる者)が、神戸で京都詰合の者から聞かされていることである。『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』にその記述はないが、『瀧善三郎神戸一件書』では、二月四日の項に但し書きで、二月七日に「神戸江(へ)護送ニ及候事 但し此時岩倉殿之内諭書読諭致候事」とある。
 また、『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』にある「往古は三韓有るを知て萬国有るを不知、然ルニ当今萬国並立候上ハ同く目[日カ]下之民ニ有之候間、彼之四方之国を以、我九州、四国抔之如く見申場合ニ候間」の文章や、「公法による処断」が決まる廟堂の会議の記述などが異なる。
 この二書とも事件後かなり経過してから編纂されたものであり(「諭解」の通達を記した『復古記』巻二十七、明治元年二月二日の記述(頁791―792)には、「〇章政記ニ云、二月二日、岩倉輔相ヨリ」とあるが、岩倉が「輔相」になるのは、閏四月である。また、(池田)章政が岡山藩を継承したのは事件収束後の三月十五日である。)、政治的判断が影響した可能性がある。

▽資料・日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書

岩倉具視からの諭解 『復古記』巻二十七、明治元年二月二日(頁七九二)
此度神戸之一條ニ付テハ、嘸々其藩一統苦心之程察申候、於朝廷モ御同様、彼是三日モ御評議ニ相成得共、兎角不決、此上ハ主上御叡断之外無之ト存、則相伺候処、実ニ其辺被為悩叡慮、彼是事情言上、如此御叡断御沙汰ニ相成候事ニ有之、此度、当人儀彼之為ニ死スルト思ヒ候如何ニモ残念ニ被思候得共、実ニ皇国更始御一新之折柄、右之次第ニテハ如何様之大害ヲ可醸モ難計候ニ付、無拠公法ヲ以テ御処置被仰出候間、何卒天朝之為、皇国之為、次ハ備前一国、日置一家ノ為、甘シテ罪ヲ受候様懇々被仰聞候ニ付、京都詰合之者、神戸表へ罷越、帯刀家来共へ御趣意之趣詳ニ申聞、斯迄厚キ叡慮奉蒙候上ハ、為国家彌感発、御国威不相汚覚悟可有之段及説諭候処、本人初一同甘心仕候

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