慶応四年神戸事件を考える

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Ⅷ.処断に向けて

(6)伊達宗城、「発砲号令之者」の人定を要求(二月六日)

 六日、外国事務総督・伊達宗城は兵庫の伊藤俊介からの要請を受け、即日京都出立。その夜西宮着。岡山藩西宮警衛隊総督の池田伊勢を呼び出す(※1)。
 池田伊勢が体調不良(※2)につき代理の古田藤兵衛(※3)と付き添いの上島与惣兵衛(※4)が一緒に参上した。
 宇和島藩の重役・須藤但馬(※5)、徴士参与外国事務係・五代才助(※6)と面会したところ「此度、貴藩からは今回の事件の処理がどこまでできているか、朝廷はもちろん、大坂や兵庫にも発砲を号令した責任者の名前、いつ引き渡すかとの届けもない。非常に心配している。各国公使が『この事件を朝廷も処置に窮しているように見受ける。このような事件を政府がうまく処置できないようでは、今後何ごとも信用することができない。』と言っている。彼ら外国公使が兵庫を出帆して横浜港に戻ると言って来たので、(その前に決着したいと)宇和島侯が急遽出張して来られた。急いで、報告をすべきではないか」と言った。
 古田達二名の者は、「自分たちは軍事担当なので、この件についてはまったく承知していない。どのようになっているか、そのことについて京都から出張しているものがいるので、その者に伝える」と言って退散した。
 なお、「発砲号令之士官」の姓名などを示す書類を「人定書」とする。

 この時のことは、執政側『御手留日記』と岡山藩側『兵庫一件始末書上』のそれぞれで書き留められている。

▽資料・御手留日記/兵庫一件始末書上[二]

『御手留日記』頁四四―四五
六日
〇暁六前兵コより俊介使来ル英公使東久世之帖見候処、何日処置とも無之加之(これに加えて)東久世モ如約束(約束のごとく)下向無之、岩下モ不来俊陶蔵位ニ為任置候義甚憤懣扱兼候故東久世不在なら、此方出庫願敷由ニ付、小松五代抔へ早々出候様申遣置候、中島作太郎也
〇小松五代来薩蒸艦用意申付候也
〇内海多次郎鈴木も宜よし小松話
 大須賀
(中略)
〇第三字過馬にて出立、暮/\西の宮へ着ス
〇備前家老池田伊せ呼候処不快ニ付番頭と外ニ壹人出る、五代但馬両人より号令人之名為尋候事。

( )はサイト管理人補記。読みやすいように読点を施した。


兵庫一件始末書上[二](同[一])
一 同宵(※一)、宇和島前少将様、兵庫表に御出張に付、西宮駅御止宿に相成、
同所出張惣督御本陣へ召され候処、惣督不快に付、名代為(な)る古田藤兵衛、附添上島与惣兵衛罷出候処、
重役須藤但馬、徴士参与外国事務懸り五代才助(と)面会にて、今般始末貴藩には何程之御運に相成居申候哉、
未た京、大坂、兵庫表江(へ)も本人姓名何某、何日御引渡与(と)申(す)義、御届も御座無く甚(はなはだ)心配仕居申候、
夫(それ)ニ付、過日外国公使共り申出候ニ者(は)、今般前件之義於朝廷(朝廷において)も御処置難被遊(難しく遊ばされ)義与(と)被存(存じられ)候、
如斯(かくのごとき)事件於政府御所置御六ヶ敷(政府に於いても御処置難しく)候而者(ては)、
向後何事も御運之程如何ニ存候間、各国共近々兵庫表出帆、横浜港江(へ)引取可申段(申すべき段)申越候ニ付、宇和島侯急ニ御出張ニ相成候間、早速御届仕べき段申聞候ニ付、両人共何分私共者(は)軍事ニ関係仕候者ニて、右之義一切承知不仕(仕らず)如何ニ相運ひ居申候哉、何分其儀ニ付京都表旧字より出張仕居申者御座候間、委細同人江(へ)申聞御返答ニ可及(及ぶべき)段相答置引取

( )はサイト管理人補記。読みやすいように読点を施した。

※一、この前の部分(兵庫一件始末書上[一])は五日なので、続きと見れば五日ととれる。
 しかし、『伊達宗城在京日記』では、伊達が西宮に到着し、伊勢を呼び出したのは六日の夜である。池田伊勢の代理で参上した古田藤兵衛に付き添いで同行した上島与惣兵衛の奉公書『上嶋総衛』(池田家文庫、資料番号D3―435)では「同年二月六日夜宇和島少将様西之宮御泊之節、出先重役被為召候付古田藤兵衛同道ニ而(以下略)」とあり、伊達宗城による岡山藩関係者の呼び出しが、「六日」で間違いないことがわかる。
 ただし、「同宵」の理由は不明。

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東征軍へ参加命令(二月六日)

 新政府から岡山藩に東征軍先鋒仰せつけ国力にふさわしい兵力を差し出すよう下命。

二月六日太政官代ヨリ御達
池田備前守
右今般御親征被仰出候ニ付、東海道先鋒被仰付候條、国力相当之人数差出、諸事総督之指揮ヲ受勉励候様、御沙汰候事
二月六日
但二月十五日迄桑名江(へ)相揃候様被仰付候事
(『史料草案』巻二十二、池田家文庫 資料番号 A7―41)

2.二月七日(陽暦2月29日)

(1)岡山藩、瀧善三郎の氏名を提出

 七日早暁、岡山藩京都留守居・澤井権次郎が、上島与惣兵衛を同道し、「発砲号令之者」を記した別紙折懸を伊達宗城に同道していた参与兼外国事務掛・五代才助に提出する。文書の日付は「六日」である。
 文書には「発砲号令之者」として「日置帯刀馬廻り士(※7) 知行百石 瀧善三郎」と記されていた。
 提出後、兵庫での対応について相談した。

なお、『復古記』第二冊巻三十、明治元年二月六日の項に外務省記によるとして瀧善三郎を兵庫に護送(押送)する旨申出た(稟ス)ことが記されている。五代に提出した文書と日付をあわせて提出したと思われる。
 その後、早駕籠で兵庫へ向かい、旅籠町に宿を決め、前夜国許から出張して来ていた岡山藩外交方・下野信太郎を同道し、英国公使館を訪問した。
 同公使館で五代友厚と相談(※8)し、「本日は処断を行えない。とりあえず本人(切腹する者)の宿を決めておくように言われ、すぐに旅籠町の桝屋長兵衛方に宿を決めた。旅籠町は通称で、桝屋長兵衛方は、小広町にあった脇本陣であった。

▽資料・御手留日記/兵庫一件始末書上[三]

『御手留日記』頁四五
同七日
〇今暁備前家来より名元附出ス
日置帯刀家来
 五代余程骨折候也馬廻り士
百石 瀧 善三郎


兵庫一件始末書上[三])
就而与惣兵衛旧字より右之趣申聞候ニ付、別紙書取相認、猶与惣兵衛同道五代才助ニ面会相達置申候
別紙折懸 御名家老
日置帯刀馬廻り士
知高百石
瀧 善三郎
年齢三十二歳
右者先般神戸通行之砌外国人与行縺之義ニ付、公法を以御処置被為在候間、
其節発砲号令之士官割腹被仰付候旨御達ニ付、
右人体之者明七日兵庫表ヘ差出申候、此段不取敢御届申上候、以上
御官名家来
 二月六日澤井権次郎
右之書取指出候処、至極御安心之由申聞候、
尚兵庫表ニ而之(にての)始末相談仕置、引取申候

一 同七日早朝急輿ニ而兵庫表江罷越旅籠町ニ下宿仕
前夜御国表旧字より下野信太郎同御用ニ而罷越居申候ニ付
午後同人同行、英国公使館ニ参り五代才助ニ面会
御運口承候処、何分今日者御運ひ付兼候間、本人下宿
見斗止宿為致置候様申聞候ニ付、直ニ下宿手当仕置 [旅籠町/舛屋長兵衛]、

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瀧善三郎の知行・身分について

 瀧家は、善三郎の兄源六郎が当主で百石・横目格である。しかし、善三郎は瀧家に同居する五人扶持、側役である。善三郎の養子、瀧猛水などの奉公書を見ると「日置家人少ニ付」とあるが、「慶応四年侍帳」を参照すると『瀧善三郎自裁之記』の原著者篠岡八郎を始め、複数の例がみられる。
 詳細に調査していないので推測の域を出ないが、各家の長男が同時に出仕しているように見受けられ、相続を前提にしたものが多かったのではないか、と思われる。瀧家の場合は当主である兄源六郎に子供が居らず、善三郎に跡目を相続させる考えもあったのではないか。
 いずれにしろ、善三郎が日置家で百石・馬廻り士になるのは、「二月七日」からである。伊達に人定書を提出する前に瀧善三郎に切腹が命ぜられ、彼が了承していたことは想像に難くない。この時、外国公使団が要求する「発砲号令之士官」としての要件を満たしていなかった彼がなぜ選ばれたか検討した。
瀧善三郎の発砲責任を検討する三角マーク

(2)伊達宗城、神戸で外国外交官と懇談

 岡山藩から「発砲号令之者」の人定書の提出を受けた伊達宗城は西宮から神戸に移動した。神戸に着いたとき伊藤俊介に誘われて(※9)イギリス公使館に行き、ラウダ―(兵庫代理領事)、サトウ(日本語書記官)らと昼食。その後、運上所(仮公使館)に行き、パークス(イギリス公使)と会談した。
 対談の内容は①東久世が来れなかったので、自分が来たこと、②各国公使と一同に会見することの申し入れ、③京都の新政権について(伊達は大坂遷都について言及したあと口外しないよう申し入れている)、④慶喜の処遇について、などを話している。その後他の公使と会ったのもパークスの勧めによったようだ(資料により若干表現が異なる)。
 イタリア、アメリカ、プロイセンの公使と会い、帰りがけフランス公使ロッシュに会った。暮れ前に宿に帰ったあと、ラウダ―が来て、瀧の助命について話しあっている。
 当サイトで参照している資料を見る限り、最初に動き出したのは五代才助のようだ。その相談を受けたラウダ―がパークスに相談したが、否定的な回答しか得られなかったと言う。
 伊達の指示によって五代が動いたと考えることもできるが、ラウダ―と伊達の会話、五代と伊達の会話を見る限り、伊達は否定はしないがあまり乗り気ではないようにとれる。
 翌日、イギリスの軍艦オーシャンを見学する予定だったが、ロッシュが明日来るとの連絡が入る。フランス語通訳、塩田三郎(※10)のメモによるとあり、フランス公使に近い人間として塩野も活動していたことが分かる。先にロッシュと会った時も塩野が通訳していたか。

 この後、伊達がどこに宿泊したか資料には明記していないが、東久世が宿泊した神明町にあった兵庫本陣だと推定している。

(この項は、『御手留日記』頁45、『伊達宗城公御日記』頁24―32、『遠い崖』6頁283―284によった)。

▼管見1
 歴史は勝者によって語られると言うが、同時に資料によって推測されることがほとんどである。当人の活躍がもちろんあるには違いないが、実際に決定権を持っていたパークスよりも、早くに回顧録が紹介されたサトウの視点で幕末史が語られることが多い。
 パークスは在職中に亡くなったせいもあり、回顧録の類を残していないようだ。彼の立場からの記録が公開されると、また違う幕末史が見えてくるかも知れない。
 そして、幕府に肩入れしたフランス公使ロッシュ、彼の通訳をした塩野など主流からそれてしまった人達の視点も忘れられているようだ。彼らの目から見た明治の景色を見てみたい気もする。
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補注

※1.池田伊勢の呼び出し
 この時、池田伊勢は、西宮六湛寺内如意庵に宿陣していた。

※2.池田伊勢が体調不良
 池田伊勢はこの時、満十四歳。このような交渉に耐えうる年齢ではない。こういったとき、責任者が「不快」につき代理が出頭するのは通例であるようだ。

※3.古田藤兵衛
 慶応三年五月時点では、鉄砲頭、五百五十石(岡山大学池田家文庫諸職交代データベースシステム。2020/02/29確認)。西宮への出張の届けに先手物頭とある『史料草案』巻二十、慶応三年十二月二十九日]。

※4.上嶋与惣兵衛
 同人の奉公書である『上嶋総衛』(池田家文庫、資料番号D3-435)では、慶応三年十二月二十二日に御鉄砲蔵御用兼軍事御用を兼務、慶応四年一月十五日兵庫で東久世に謁見、二月六日伊達宗城と謁見。
 『兵庫一件始末書上』では、古田藤兵衛、上島与惣兵衛が「我々は軍事の者」と言っているように上嶋与惣兵衛は、新流も含めた大砲に長じた軍人だったようだ(前記奉公書)。

※5.須藤但馬
 須藤段右衛門。後、且。宇和島藩士。百五十石(宇和島藩庁・伊達家史料六 嘉永四辛亥晩夏改分限帳、頁415)。宇和島藩の歴代要職の家に生れる。安政二年郡奉行、文久元年目付軍使兼帯、同三年小姓頭役持筒頭、慶応元年若年寄、明治二年宇和島藩大参事。伊達宗城の股肱の臣として、幕末期に活躍。
 『復古記』巻十九、明治元年正月十四日(頁五五八)に、宇和島藩からの参与差出として須藤但馬の名前がある(他は西園寺雪江)。
【参考文献】

  1. 北宇和郡誌 前編、愛媛県教育委員会北宇和部会編、関和洋紙店印刷部、大正六年(国立国会図書館デジタルコレクションの書誌情報による)。
     同書は「宇和島吉田両藩誌」として、名著出版会が昭和四十七年(1972)に復刻している。また宇和島の書店も昭和六十二年に復刻している。
  2. 宇和島藩庁・伊達家史料六、家中由緒書 下、近代史文庫宇和島研究会編・発行、一九八〇。頁415

※6.五代才助
 五代友厚。薩摩藩士・政商。長崎の海軍伝習所に留学し、航海・測量などを学ぶ。薩英戦争では、イギリスの捕虜となる。慶応元年、渡英。その後ヨーロッパ諸国を視察し、新納とともにベルギー人と合弁の貿易会社設立に関し、契約を結んだ。
 明治元年には参与兼外国事務掛・外国事務局判事に任ぜられて大坂在勤となり、備前兵争闘事件・土佐藩士堺浦事件・パークス襲撃事件の外交事件を処理した。
 後、大坂商法会議所回答、大坂商業講習所を設立、その他諸会社の設立に関与し、関西の財界で活躍した。

【参考資料】
明治維新人名辞典、日本歴史学会編、吉川弘文館、昭和五十六年、頁400。

※7.馬廻り士
 馬廻は平士のことで、士官に当り、番頭・物頭・近習頭分の下に配属される一般将校。知行取りと無足(給扶持を与えられる)とに分かれる。岡山藩の場合、約七三〇―八四〇人で時代ととも増加した(『岡山藩』頁66。一部順番を入れ替えるなど若干変更した)。以上は岡山藩での扱いであるが、日置家での扱いもこれに準じたと思われる。なお、瀧家の知行書が残っており、知行取りである。

※8.五代才助と相談
 『伊達宗城公御日記 慶応三年四月より明治元二月初旬[慶応四年三大攘夷事件関連資料 その一]』によれば、岡山藩側はこの時、五代才助に次のように申し入れた。
「〇右ハ西宮ヨリ脱刀ニて可指出、警衛モ可相成備にていたし出度、介酌[ママ]同藩ニ被仰付仕合、死体もお渡候ハヽ猶更尓後之人気ニモ関係難有」(頁25。読点を入れるなど一部形式を改めた。[ ]は引用元のもの。)
内容的には、
 瀧を丸腰で差し出す、警衛、介錯を岡山藩で行いたい、死体をお渡しいただければ藩内の人々の気持ちにも影響するのでありがたい
というものであった。切腹が行われた能福寺の警衛はできなかったが、護送は日置家と岡山藩、介錯は日置家家臣が行い、遺骸も日置家に戻された。

※9.伊藤俊介の誘い
 サトウの日記では「チーフ(パークス)の要請で」とある。また話の主内容は「諸外国の代表が御門に謁見する件」であったようである。(『遠い崖』6、頁285)

※10.塩田三郎
 幕末から明治にかけて仏公使ロッシュの通訳として活動。
 1867年外国奉行支配組頭となる。維新後、民部省奏任出仕。
 ロッシュの通訳をしたことなどからフランス語に堪能という印象があるが、残した蔵書『塩田文庫』について述べた伊藤の論文などによると、実用に耐えうる範囲で英仏語が出来たようだ。
【参考資料】

  1. 幕末維新人名事典、宮崎 十三八, 安岡 昭男編、新人物往来社、1994年刊。ページ473(一部表記を改めた)。
  2. <エスキス>塩田三郎と<塩田文庫> : 幕末期を中心に、伊藤尚武著、参考書誌研究/24、(1982)、国立国会図書館