人定書を伊達に提出した二月七日(※1)、正式な切腹命令が瀧善三郎に行われた。
『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』では、岡山藩からの切腹命令と、五百石で召し抱えること、日置家からの切腹命令と新知百石を下賜、嫡子成太郎への相続が通達されたことになっている。(※2)
申し渡しの場所は、帯刀が宿陣していた森村・浄称寺であると思われる。
『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』(池田家文庫 資料番号S6―113)
池田家ヨリ之申渡(※一)
御趣意
先般於神戸外国人ノ(トヵ)行縺レ一件於朝廷御引受宇内之公法ヲ以御処置ニ相成り、終ニ罪科ニ被処候儀ニ候得共、全ク皇国ノ大事ヲ体任シ、可奉安宸襟トノ重キ勅命モ有之候御事故、第一ハ朝廷ノ御為、次ニハ備州之為帯刀之為ヲ思ヒ、聊モ忿怨ヲ不挟従
容就死ノ程頼思ヒ候、跡式之義者、深ク趣意も有之、格別ニ取立遣候間、是又掛念致間敷、実ニ馬前之討死ニモ相勝り、忠臣ト可申、一入憐ミ思ヒ候事
波多野彌左衛門ヨリ
一 御知行五百石被下被召出候事
一 忰ニテ別勤之者ハ親へ右之通被下候事
一 親悴モ無之者ニ候ハヽ本人内存ノ者承置候事
一 男子両人有之候ハヽ忰ハ召出、次男日置家ニテ名跡ノ
事
日置家ニテノ申渡(※一)
一 御屋敷(※二)ニテ被仰付御書面
瀧 善三郎
此度兵庫神戸村通行之節、
英人トモ先隊行列へ理不尽ノ進退有之候節ノ処置振、
武門ノ立場尤ノ義ニ有之候得共、事不果、
却テ逃去ル仏人へ猥ニ不義之発砲号令ニ及候段、
其場之義トハ乍申各国ノ分モ不弁軽挙ノ始末、
其上右挙動ヨリシテ皇国国家之大患ヲ醸シ、
奉苦叡慮之段別紙之通蒙御沙汰候、
我等申訳立兼恐入相謹ミ候義、臣子ノ情難忍事ニ候得共、
皇国為国家ニ候得ハ対天朝謝罪見証之為ニ指遣候間、
外侮ヲ不受様謝罪ヲ尽シ、潔ク武門ノ法ヲ以忠死ヲ可被遂、
依之新知百石遣シ忰繁太郎(成太郎ヵ)へ無相違家続申付、給人席ニ指置候右直ニ申付候
二月七日御名御判
※一、赤で表示している文は池田家文庫原書S6-115、S6―123の原本では、墨書きの文に朱で書き加えられている。
※二、御屋敷:家中の意味合いで使っているかと推測するが、確定できなかった。なお、『御津町史』に収録の「(二月七日)瀧善三郎に切腹仰付けらる書状」(写)では、前記の文に続き、善三郎長男・成太郎への知行下賜の通知が転写されている。別の文書を続けて転写したと推測しているが、後者は岡山の日置家で行われたと思われる。
【意訳】
一 御屋敷で仰せつけられた書面
この度、兵庫の神戸村通行の折り、英人とも先隊行列へ理不尽の行動があった際の処置振りは武門の立場として尤であるが、事成らず、かえって逃げ去るフランス人へみだりに不義の発砲を号令に及んだ。その事は、その場の義とは言いながら、各国のこともわきまえない軽率な行いである。
その上、右の行いによって皇国国家に大きな患いを醸し、天皇の御心を苦しませ奉ったことは別紙の通り、御沙汰があった。
我らは申し訳が立たず、恐れ入り、謹慎している。臣下への思いは忍び難いことであるが、皇国国家の為であれば、天朝が謝罪される証拠として指し出すので、外国の侮辱を受けぬように謝罪を尽くし、潔く武門の法を以て忠義の死を遂げらるべし。
これにより、新知百石を遣わし、倅成太郎へ相違なく家を相続させ、給人として召し抱える。右を直ちに申し付ける。
『御奉公書上 日置英彦』八(池田家文庫 資料番号D3―27)
一 同月七日先般神戸ニ而(て)不慮之儀出来之節発砲号令之者為證人指出、割腹為仕候様御達御座候旨被仰出、則家来瀧善三郎指出候ニ付同人江(へ)波多野弥左衛門ヲ以厚蒙御趣意右御礼同人名代ヲ以波多野弥左衛門迄申上并私よりも右為御礼同人旅宿迄使者指出
善三郎義深江村迄護送為仕田中惣左衛門ニ相渡候事
(ⅰ)森村から深江村
瀧善三郎への申し渡しが終わると、いよいよ兵庫へ護送されることになった。
森村浄称寺から、深江村正壽寺までの護送は日置家が担当し、物頭、狩野伝左衛門以下令司二名、足軽二十人などが当たった。
別に浜田弥左衛門(日置家横目付)のもとに介添として、坂口吉之介、笹岡八介、角田勝吉、介錯宮崎慎之輔、医者、徒目付、足軽など総勢二十九名が兵庫まで同行する(坂口らはいずれも日置家家臣)。
そのどちらにも善三郎の兄源六郎の名前はない。森村にいた彼はどのような思いで弟を送ったか。
『御奉公書上 日置英彦』八(池田家文庫 資料番号D3―27)には、「発砲号令の者を證人として差し出せと命ぜられた」ので、「瀧善三郎を差し出したところ同人に厚い御趣意を蒙ったので、(それを伝えた)波多野弥左衛門にお礼の使者(日置及び瀧の名代)を宿舎まで遣わせた」と記している。
浄称寺を出れば、深江村までは下りである。海に向かって魚屋道(ととやみち)(※3)を下ったと推測している。
森村と浄称寺
『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』(池田家文庫 資料番号S6―113)
津田孫兵衛殿
板津武司殿
右之通於御前御直ニ被仰付、孫兵衛、武司、
其外御役人共御次へ
一 深江村へ召連罷出候人別
前後警固御足軽 弐拾人
物頭 狩野伝左衛門騎馬
令司 弐人
外ニ神戸へ罷出候面々何レモ罷出ル
右之面々附添、一旦深江村へ罷出御表御徒目付田中惣右
衛門へ引渡ス
相詰ル
一 善三郎致同道、浜田彌左衛門義御前へ罷出ル、
御次へ仲間一人
罷出ル
一 滝善三郎神戸へ罷出候節付添罷出候者
介添坂口吉之介
笹岡八介
角田勝吉
介借宮崎慎之輔
御医者江村東庵
御徒目付水川松三郎
浜崎直次郞
御足軽五人
駕籠之者五人
鑓持六人
薬箱持壱人
徒之者弐人
雨具持弐人
改行および読点を加えるなど一部変更した。
(ⅱ)深江村から兵庫
西国街道を越えて、深江村に入る。深江村正壽寺で、本藩の護送隊に引き継ぐ(※4)。同寺はかっての浜街道と魚屋道が交差するところにあったと思われる。
深江村と正壽寺
天城池田家物頭・佐藤佐源次が騎乗により銃卒二十人を率いて前駆し、次に善三郎の駕籠、槍其他が進む。後詰として岡山藩物頭・原田権左衛門が騎乗して、銃卒二十人を率いた。その後に、森村から随行してきた篠岡達付き添いなど日置家家臣が従った。駕籠は垂駕籠、護衛はみな野服(※6)であった。
『池田伊勢御奉公之品書上』(資料番号D3―9)
一 同二月七日、帯刀儀、去月十一日摂州神戸通行之節、
外国人与(と)行縺之儀出来、右御裁許、
朝廷江(へ)御引取ニ相成、
此度発砲号令之者各国見証を請、
可致割腹旨、被仰出候ニ付、同人家来瀧善三郎、
今日兵庫表江(へ)指出候付、私家来召連罷越候様、
水野主計(より)申越し候付、則、深江村正壽寺ニ而(て)
家来佐藤左源次受取、組足軽ホ(など)召連、致守護罷越
『兵庫一件始末書上』(池田家文庫 資料番号「S―6-128-1」)
両人共神戸東関門外ニ罷越、本人着を相待居申候処、
七ツ時過着為護送御先手原田権左衛門
騎馬御足軽弐拾人、御徒目付中堀惣左衛門御徒八人、伊勢殿
より物頭佐藤左源次騎馬足軽弐拾人、帯刀殿側廻り之者
四、五人、目付役其外跡片付之者、尤本人垂駕籠いつれも
野服ニて直ニ旅宿ニ着仕候、御先手原田権左衛門並御足軽ハ
同晩直ニ西宮江罷帰申候、其外之者ハ悉居留警固仕候
同晩宇和島侯御本陣江罷出御都合承り候処、明八日
昼後各国公使江御応接ニ相成候間、相分り次第為知
候段五代才助申聞候、且又此一件ニ付
朝廷より数度御達書之写夫々借用致度旨申聞候へ共
所持不仕候ニ付、同夜信太郎急輿ニ而西宮出張先キ江
取ニ罷越申候
正壽寺から北上して西国街道を通るか、すぐに西に向かって浜街道(※7)を通ったかは不明である。岡久渭城は西国街道を通ったとするが、サイト管理人は浜街道を通った可能性もあると考えている。
澤井権次郎と下野信太郎が待つ神戸東関門(※8)に到着したのは、七ツ時(午後四時頃)であった。
さらに東に進んで、兵庫津の東惣門(湊口惣門)を通り、兵庫津に入る。
小広町にあった脇本陣桝屋長兵衛方に到着した時刻は、『兵庫一件始末書上』には記されていない。
「瀧善三郎自裁之記」では、「夜九時頃兵庫に着」とある。脇本陣の入口には提灯が灯っていたか。
原田権左衛門と彼が率いた足軽は、その夜に西宮へ帰陣したが、それ以外の者は、警護のために残った。日置家の同行者は隣の家を借りて、皆ここに宿泊した。
澤井権次郎はその後、伊達宗城が逗留する兵庫本陣に行き、五代才助に今後の予定を尋ねたところ、「明日、午後(昼後)、各国公使と会談するので、分かればお知らせする」と回答された。また、「この一件についての政府からの通達書類の写しを借用したい」と申し入れられた。
神戸には持ってきていなかったので、その夜のうちに下野信太郎が西宮まで取りに戻った。
この日は晴れだった(※9)。旧暦の七日はほぼ半月であったと思われる。瀧善三郎は遺書に記す。
二月七日晩兵庫に止宿す、春風の吹入るまゝにはつ旅寝
補注
二月七日に多くのことが起きている。六日に伊達が西宮に下ってから、一度に事が動き出したと言えるが、日付に矛盾がある書類も一部にある。
具体的には、
①二月七日早暁、西宮で伊達宗城に提出された六日付の人定書に「百石、馬廻」とある。仮に七日に切腹命令・新知下賜の通達があったとすれば、順番が逆である。
②岡山藩から通達された文書を、日置家で修正したと思われる。具体的には「切腹する者が五百石以下であれば五百石を、五百石以上であれば、倍の知行を与える」としている部分を、瀧善三郎の五人扶持を前提に「五百石を与える」としている。
これは、日置家で知行を下賜するとき、具体的な対象者に合わせて書きかえたためと思われる。
単純にわかりやすく書き直したとも思えるが、波多野弥左衛門が持参した文書が作成されたとき、対象となる者を藩庁が把握していなかったことを分かりにくくし、「責任を負う者」(負わされる者)を誰が選んだかを曖昧にしようとする意図があった可能性も否定できない。
③岡山藩からの切腹命令と瀧善三郎を想定した新知五百石の下賜を記した文書を先に、日置家からの切腹命令と百石の新知下賜を後に配置することで、本藩からの切腹命令が出たあと、日置家からのそれが出されたように読める。このことは、②で示した仮説と関連があると思える。
【補足】
瀧善三郎の死後、跡敷はこの文書の最後に記されている「息子が二人いた場合は、長男は岡山藩へ召し出し、次男は日置家で跡目を継ぐこと」という一条に従って処置された。長男は瀧善三郎の嫡子成太郎(しげたろう)、次男は長女いわの養子となった猛水である。それぞれ、岡山藩で五百石、日置家で百石を下賜された。
※2.瀧善三郎への通達
『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』などでは、この時のやりとりは記載されていない。「瀧善三郎自裁之記」では、帯刀が直に説諭、また本藩大目付・波多野弥左衛門も声をかけたとする。
「主公より御用に付本営へ可罷出旨申越され、浜田弥左衛門同道して主公の前に出頭す、主公より左記の旨を被仰渡。
神戸通行の節外国人共行列に対し不都合之を怒り兵刃を加え且発砲を号令せるは是義なり、然れども小事を忍ぶ能わざりしは過失なるを逸れず、今死を以て其の過失を償わんとす是勇なり、義を以て始め勇を以て終る、実に吾家の忠臣なり、跡々の義は知行百石を遣わし給人席を可申付、懸念致間敷候。
善三郎感涙に咽び「今生の拝謁、唯今を以て永訣仕る」と申し上げ将に座を退かんとするの際、主公脇座に在りし大目付波多野弥左衛門進み出で、「其許は帯刀殿家臣瀧善三郎なる蕨、拙者は太守様御内命に依り過刻到着する者なり。御内命の趣を申伝うべし」とて(中略)と述ぶ、主公を始め、本人は不及申、護衛の者一同感泣禁ぜす、(以下略)」
同書では、この記述の出来事が二月六日にあったとする。全体に講談調であることなどに疑問を感じ、採らなかった。
※3.魚屋道(ととやみち)
古来六甲横断路として海岸地方の物資を有馬方面へ運搬する重要な道で、俗にオトト道という。(中略)オトトというのは魚の方言である。魚は腐敗し易く、いきのよいのを運ぶには最も近い道を短時間に通らねばならぬ。そのため山道を開いた六甲横断の近道がこの道である。(『芦屋郷土誌』細川道草著、芦屋史談会、1963。頁一一九)
※4.正壽寺での引継ぎ
深江村で瀧の護衛が日置家から岡山本藩に引き継がれた理由は資料には書かれていない。この先、居留地北端の西国街道を通る。衝突・発砲した日置隊がそこを通過することを避けたのではないか、と推測している。
※5.垂駕籠
町駕籠の一種。左右にむしろなどでたれをかけた小型の駕籠。(『国語大辞典』)
※6.野服
遠出・旅行などの時に用いた衣服。野袴(のばかま)・打裂(ぶっさき)羽織など。(『国語大辞典』) 幕末の正規の軍隊が完全な和装であったかどうかは疑問が残る。岡山藩においても軍事改革の途中であり、戊辰戦争時の岡山藩の兵士の写真などを見ると、頭髪はちょんまげと断髪(耕戦隊)の両方いるが、服装はみな洋装(ズボンなど)である。
【参考文献】
国語大辞典、尚学図書編、小学館刊、昭和五四年
レンズが撮らえた幕末維新の志士たち、小沢健志監修、山川出版、2012年
※8.神戸東関門
『兵庫一件始末書上』では、「神戸東関門外ニ罷越」とある。この東門が、兵庫の東惣門(湊口惣門)である可能性も検討した。瀧を護送して来た者を澤井らが迎えたのは、居留地に接した東関門であると判断した。この時兵庫を薩長が守備しており、東関門にも彼らの管理下にあったと思われる。
これへの対応と、居留地付近での万一のことに備えるためがあったと推定した。
※9.天気
岡久渭城は北風文書をもとにこの日が晴れだったとする(『明治維新神戸事件』頁158)。