日置隊のこの日の宿営地を、手野とする資料があるが、池田伊勢隊の布施藤五郎と銃隊40人が別働隊として、この日手野に泊まった(姫路討伐始末)。これを誤認したのだと推測する。
鳥羽伏見の戦いで後詰の姫路藩が敗走する旧幕府軍に巻き込まれ、続々と退却してくる(八日)。この日(九日)、柴田は神戸から退出する。その際アメリカ・プロイセン・イタリアの三公使に運上所を貸す。この動乱の二日間を柴田は次のように記す。
▽資料・日載『日載 十』
八日巳晴風
早天税関へ出(る)。各岡士(領事)へ立退様書翰遣す。堺辺出火の趣、坂地空虚趣。
尼城(尼崎城か)ハ薩人乗取候趣、(幕府方として後詰であった姫路藩兵は)姫路城へ御立退、会津は河内国、道成寺へ(立ち退き)、御城代・町奉行共何地へ御立退候趣、
頻々悪消息、之有り、家来三□へ非常勤五円□預ヶ置。
九日午晴
税館(運上所)出勤。坂地ニ当り火事焔々天ニ滔る。尋常之体ニあらす。
英ミニストル上陸し来り。兵卒置所借受度旨、□□す。亜(アメリカ)・孛(プロイセン)・伊(イタリア)三公使各国惣名代として上陸し来り。
外国人警衛向之談之有り。遂に税館を仮之各公使御館ニ貸渡し、彼方ニ而警□向引受候談決(す)。即時貸渡□(す?)。
税館向取扱之儀は用達[蔦屋/久次郎へ]申含メ、支配向とも一同[一ト先ツ]ヲ引候事ニ□し、各岡士ニ□之談、書簡を以て達ス。
九郎孝之助並長崎通詞両人何レも願ニよって残し置キ通詞共江(へ)ハ帰崎之手当五拾円も渡ス。去ル。
※『日載』では、時刻・温度を西洋式に「××時」「××度」と記した部分も多い。洋行経験がある柴田が洋式記述を用いた可能性はある。しかし、非常金五円という表記は謎である。九日の記録でも通詞等へ渡した金額の五拾円という表記が出てくる。『日載』が後になって書かれたとは思えないが、調査ができていないので保留としておく。何か分かれば追記する。(二〇一九年十二月二十六日)
『ドイツ公使の見た明治維新』によればアメリカ・プロシア・イタリアの公使が税関を借りた仮の公使館に居住を定めた。このことは日置隊の銃撃を検討する上での傍証のひとつになることを記しておきたい。また、アメリカ海兵隊もいたことがわかる。
ただし、同書の文中にある、柴田が運上所や倉庫を焼き払おうとしていた、ということは、『日載』十、では見当たらない。この時の柴田にこれらを焼き払う必然性はなく、ブラントの推測の可能性もある。
『ドイツ公使の見た明治維新』(頁132―133)
われわれが到着した時には、できたばかりの税関や、それに付属する倉庫を今まさに焼き払わんとしていた。ファン・ファルケンブルク将軍とドゥ・ラ・トゥール伯爵、そして、私は直ちに奉行のもとに行き、それらの建物をわれらに譲渡されたいと申し出たところ、奉行もまたすぐに承諾してくれた。われわれはできる限り、この広々として風通しのよい寒い建物のなかを整備した。士官候補生エモリー指揮下のアメリカ海兵隊も移ってきて、われわれは来るべき事態を待ち構えたのである。ハリー・パークス卿はイギリス領事館に、ロッシュ氏はフランス領事館に移った。あるいは領事館になる予定だった日本の建物に移ったといったほうが正確であろう。そしてドゥ・グレッフ・ヴァン・ポルスブルック氏は、オランダの商事会社が借り受けた建物に落ち着いた。
幕末史についてのサイトや一般的な資料のなかに、アーネスト・サトウの活動を過大に捉えているように思えるものがある。彼の回顧録が他の外交官のそれに比べ、広く読まれているということだと思うが、回顧録はどうしても自己肯定が強くなる。これだけで歴史を判断するのは危険だと思う。
サトウは日本滞在が長く、後に駐日特命全権公使になった。野心家で、行動的な知日派であったのは事実のようだが、神戸事件の頃は、イギリス公使館の日本語書記官(それも神戸開港の日に昇進した)にすぎず、領事でさえない(『遠い崖』6、頁100)。このすぐあとに同僚であったラウダ―に先を越され(慶応四年一月、ラウダ―が兵庫代理領事に任命された)、不満を募らせている。最初の日本滞在中のサトウは日本語書記官以上には出世していない。(同、頁157―159)。彼が幕末の政治を大きく動かせたとは思えない。
それでも上司であるパークスがよほど無能であれば差し置いて前に出ることも可能であるが、アロー号事件などを経験し、自信家のパークスの命令を無視できるわけがなかった(その不満が彼の日記などに時々出てくる)。
最初、日本外交を主導したのは、フランス公使ロッシュだったが、旧幕府についたことで急速に力を失い、イギリス公使パークスが主導権を握った。アメリカは南北戦争からの回復期であり、プロイセン(ドイツ)とイタリアは日本で軍艦などの武力を持っていなかった。
パークスは比較的早く在職中に亡くなった(57歳。一八八五年三月二十二日)ためか、自伝・回顧録の類は残さなかったようだ(『パークス伝』ほか)。
日置隊の進軍経路については、『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』によった。