慶応四年神戸事件を考える

書きかけマーク

Ⅱ.岡山藩兵の出撃

2.慶応四年一月六日から同十日

一月六日(陽暦1月30日)

◎鳥羽伏見の戦い。幕府軍の敗色濃厚となり、大坂へ後退。
◎徳川慶喜、各国公使へ国旗を守る(身の安全をはかる)よう通達。
「〇徳川慶喜、通達書ヲ各国公使ニ遣リ、其兵利アラス、敵軍来襲ノ勢アルヲ以テ、各其国旗ヲ保守センコトヲ陳ス」 宛先は「英、仏、米、蘭、孛、伊、公使名當當当閣下」、本文は二人の閣老(板倉伊賀守と酒井雅楽頭)の名になっているが「外務省記ニ云、(中略)本書六日下ル、御上ニテ御手調ト書入アリ」と補記がある。(『復古記』第十六、明治元年正月六日。第一冊。昭和五年版頁472。)
これが、次の形で外国公使団に伝わったか。
〇旧幕府外国総奉行・平山敬忠、米公使ファルケンバーグに外国人の安全を保障できなくなったという旧幕府老中の通達を渡す。(『遠い崖』6、頁167)ドイツ公使ブラントの回顧録『ドイツ公使の見た明治維新』にも同様な記述がある(頁129―130)。
 これにより、外国公使団は神戸への避難を決める。運命は日置隊と彼らを遭遇するように導く。
◎夜、徳川慶喜大阪城脱出。アメリカ軍艦イロクォスに搭乗、翌朝兵庫沖から開陽丸に移乗して、江戸に退避。
★耕戦隊、神戸上陸。
★日置隊、片上逗留。

一月七日(陽暦1月31日)

〇新政府、徳川慶喜征討令を出す。
「七日、百官諸侯ヲ会シテ、徳川慶喜ノ反状ヲ告示シ、征伐ノ令ヲ発し、諸侯ヲシテ其去就ヲ決セシム。」(『復古記』巻十六、明治元年正月六日、第一冊。(第一冊、頁四七七)
◎大坂城内幕臣・大坂町奉行等、紀州等へ退散。大坂城内に群衆が乱入。備品・木材を略奪。市中でも幕吏役宅や外国仮公使館を略奪・焼打ちするなどの暴動になった。(『兵庫県史』第五巻、頁640)
「「大坂町奉行所」から「大阪府」へ(一)」では、大坂町奉行所与力田坂直次郎の「務書」からとして、七日朝五ツ時頃奉行所へ出勤したところ、小笠原伊勢守(大坂町奉行)がすでに退散しており、「紀州表江可相越、其儀無之ハ御暇被下候間、勝手次第可致候」と通達があったことを記す。(頁145―146)
〇早朝、イギリスを除く五ヵ国(アメリカ・フランス・オランダ・イタリア・プロシア)の公使団が大坂を脱出するために天保山堡塁近辺に避難。宿泊。(『遠い崖』6、頁178―180)
★日置隊、片上逗留。

一月八日(陽暦2月1日)

国境日 ★日置隊、片上出発、船坂峠を越えて、播磨国に入る。
 (船坂村のある赤穂藩は、幕府方か朝廷方か帰属不明)。
[写真は船坂峠の国境石]
 この先、難所のひとつ有年峠を越える。
 日置隊、片島宿営。

 日置隊のこの日の宿営地を、手野とする資料があるが、池田伊勢隊の布施藤五郎と銃隊40人が別働隊として、この日手野に泊まった(姫路討伐始末)。これを誤認したのだと推測する。

〇フランス公使が自国公使館(大坂領事館?)の状況を確認するために派遣したフランス兵が民衆から投石を受けて、二人が重傷を負って、日本人民衆に発砲。「七名ないしは八名」を倒した(『遠い崖』6、頁181―182。フランス兵二人が重傷を負ったことは『ポルスブルック日本報告』頁214。なお、この時派遣されたフランス兵は前著で13名、後著では25名)。
〇先の五ヵ国とイギリス公使とが口論。
◎薩摩藩により尼崎城が占領され、大坂城代、町奉行が大坂を退去したことが、兵庫奉行・柴田剛中へ知らされる。(『日載』十)

一月九日(陽暦2月2日)

◎大坂城を長州へ引き渡す。その作業中に炎上。
外交マーク 兵庫奉行柴田剛中、アメリカ・プロイセン・イタリア公使の申し出により、警備を委嘱し、運上所を貸し出す。管理は出入りの業者蔦屋久次郎に任せ、神戸から退避。

 鳥羽伏見の戦いで後詰の姫路藩が敗走する旧幕府軍に巻き込まれ、続々と退却してくる(八日)。この日(九日)、柴田は神戸から退出する。その際アメリカ・プロイセン・イタリアの三公使に運上所を貸す。この動乱の二日間を柴田は次のように記す。

▽資料・日載

『日載 十』

八日巳晴風
 早天税関へ出(る)。各岡士(領事)へ立退様書翰遣す。堺辺出火の趣、坂地空虚趣。
 尼城(尼崎城か)ハ薩人乗取候趣、(幕府方として後詰であった姫路藩兵は)姫路城へ御立退、会津は河内国、道成寺へ(立ち退き)、御城代・町奉行共何地へ御立退候趣、
頻々悪消息、之有り、家来三□へ非常勤五円□預ヶ置。

九日午晴
 税館(運上所)出勤。坂地ニ当り火事焔々天ニ滔る。尋常之体ニあらす。
 英ミニストル上陸し来り。兵卒置所借受度旨、□□す。亜(アメリカ)・孛(プロイセン)・伊(イタリア)三公使各国惣名代として上陸し来り。
 外国人警衛向之談之有り。遂に税館を仮之各公使御館ニ貸渡し、彼方ニ而警□向引受候談決(す)。即時貸渡□(す?)。
 税館向取扱之儀は用達[蔦屋/久次郎へ]申含メ、支配向とも一同[一ト先ツ]ヲ引候事ニ□し、各岡士ニ□之談、書簡を以て達ス。
 九郎孝之助並長崎通詞両人何レも願ニよって残し置キ通詞共江(へ)ハ帰崎之手当五拾円も渡ス。去ル。

 ※『日載』では、時刻・温度を西洋式に「××時」「××度」と記した部分も多い。洋行経験がある柴田が洋式記述を用いた可能性はある。しかし、非常金五円という表記は謎である。九日の記録でも通詞等へ渡した金額の五拾円という表記が出てくる。『日載』が後になって書かれたとは思えないが、調査ができていないので保留としておく。何か分かれば追記する。(二〇一九年十二月二十六日)

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外交マーク外国公使団、大坂湾を出港し、兵庫に到着。ファルケンバーグ(米)・トウール(伊)・ブラント(普)の三人の公使は、退去しようとしていた兵庫奉行・柴田剛中と交渉し、運上所と倉庫を借りた。(『ドイツ公使の見た明治維新』頁132―133)
 上記は同じ事を、日本側と外国側のそれぞれの立場から記している。運上所を仮の公使館として貸し出した交渉を日本側から記した資料は前記、『日載』十、一月九日を参照、外国側から記した資料として『ドイツ公使の見た明治維新』を下に引用する。
 パークス(英国公使)は別行動で兵庫に到着したようだ。なお、サトウは最初、副領事館に残り、大坂城の炎上を見ている。その後、兵庫に移動した。(『遠い崖』6、頁186)。このため、この交渉には関与していない。

 『ドイツ公使の見た明治維新』によればアメリカ・プロシア・イタリアの公使が税関を借りた仮の公使館に居住を定めた。このことは日置隊の銃撃を検討する上での傍証のひとつになることを記しておきたい。また、アメリカ海兵隊もいたことがわかる。
 ただし、同書の文中にある、柴田が運上所や倉庫を焼き払おうとしていた、ということは、『日載』十、では見当たらない。この時の柴田にこれらを焼き払う必然性はなく、ブラントの推測の可能性もある。

▽資料・ブラントの回顧録

『ドイツ公使の見た明治維新』(頁132―133)
 われわれが到着した時には、できたばかりの税関や、それに付属する倉庫を今まさに焼き払わんとしていた。ファン・ファルケンブルク将軍とドゥ・ラ・トゥール伯爵、そして、私は直ちに奉行のもとに行き、それらの建物をわれらに譲渡されたいと申し出たところ、奉行もまたすぐに承諾してくれた。われわれはできる限り、この広々として風通しのよい寒い建物のなかを整備した。士官候補生エモリー指揮下のアメリカ海兵隊も移ってきて、われわれは来るべき事態を待ち構えたのである。ハリー・パークス卿はイギリス領事館に、ロッシュ氏はフランス領事館に移った。あるいは領事館になる予定だった日本の建物に移ったといったほうが正確であろう。そしてドゥ・グレッフ・ヴァン・ポルスブルック氏は、オランダの商事会社が借り受けた建物に落ち着いた。

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▼管見1

 幕末史についてのサイトや一般的な資料のなかに、アーネスト・サトウの活動を過大に捉えているように思えるものがある。彼の回顧録が他の外交官のそれに比べ、広く読まれているということだと思うが、回顧録はどうしても自己肯定が強くなる。これだけで歴史を判断するのは危険だと思う。
 サトウは日本滞在が長く、後に駐日特命全権公使になった。野心家で、行動的な知日派であったのは事実のようだが、神戸事件の頃は、イギリス公使館の日本語書記官(それも神戸開港の日に昇進した)にすぎず、領事でさえない(『遠い崖』6、頁100)。このすぐあとに同僚であったラウダ―に先を越され(慶応四年一月、ラウダ―が兵庫代理領事に任命された)、不満を募らせている。最初の日本滞在中のサトウは日本語書記官以上には出世していない。(同、頁157―159)。彼が幕末の政治を大きく動かせたとは思えない。
 それでも上司であるパークスがよほど無能であれば差し置いて前に出ることも可能であるが、アロー号事件などを経験し、自信家のパークスの命令を無視できるわけがなかった(その不満が彼の日記などに時々出てくる)。
 最初、日本外交を主導したのは、フランス公使ロッシュだったが、旧幕府についたことで急速に力を失い、イギリス公使パークスが主導権を握った。アメリカは南北戦争からの回復期であり、プロイセン(ドイツ)とイタリアは日本で軍艦などの武力を持っていなかった。
 パークスは比較的早く在職中に亡くなった(57歳。一八八五年三月二十二日)ためか、自伝・回顧録の類は残さなかったようだ(『パークス伝』ほか)。

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姫路城 ★日置隊、片島出発、旧幕府方(藩主・酒井忠惇は老中。徳川慶喜が大坂城から逃走する際、同行した)の姫路城下通過。御着宿営。「姫路通行ノ節ハ銃卒ニ玉込申付候事」(日置忠履歴)。[写真は姫路城]
★西宮警衛隊、池田伊勢兵隊ノ内分隊摂州手能宿へ分配出張。(姫路警戒のため)布施藤五郎 銃隊四十人。(『姫路討伐始末』正月九日)

一月十日(陽暦2月3日)

〇新政府、徳川慶喜以下27名の官位を剥奪し、旧幕府領を直轄地とする布告書(いわゆる農商布告)を三條・荒神口二橋に掲げる。(『復古記』巻十八、正月十日。頁508―510)
〇征東大将軍仁和寺宮嘉彰親王、大坂に進駐。これに併せて九日に長州藩、十日に薩摩藩兵が大坂へ入り、これ以降、大坂の治安が回復に向かう。
★日置隊、御着出発、大蔵谷宿営。
明石城  大蔵谷は、鳥羽伏見の戦いでは幕府方だった明石城下の東端である。城下の宿営を拒否した姫路藩と、異なった扱いだが、経緯は未確認である。
 写真は現存する明石城の巽櫓・坤櫓。海沿いを行く西国街道とはやや距離がある。
◇岡山藩、姫路出兵。藩兵437人、雑人100人(『岡山県史』第十巻、頁7表1)

日置隊の進軍経路については、『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』によった。

兵庫までの経路
〇大政復古を外国に通知する国書 『復古記』巻十八、明治元年正月十日に、同日付で国書を東久世通禧に託してを東久世に託し(「付シ」)、に当たらせる、という記事がある(頁507)。政権は天皇(新政府)にある、という国書であるが、しかし、同書では、補記して、国書の日付が十日なので、ここに記すとある。
 『東久世通禧日記』では、該当国書が東久世に提示されるのは十二日であり(頁520)、これに従って、後に記す。