大光院(寺院)

 京都市右京区にかってあった寺院。京都妙心寺の近くである。日置氏の菩提寺のひとつで岡山藩家老日置氏三代日置忠俊が祀られている。瀧善三郎の切腹後、遺骨の一部が収められた。
 現在も「収骨碑」および日置忠俊の墓碑がある。
 〇日置忠俊(豊前守、大光院):岡山藩家老。豊前守。元亀三年(一五七二)生、一八歳で家督を継ぎ、慶長八年、池田利隆の家老職になる。金川の古城を改修した

 『妙心寺史』によれば、元は正眼院。前田玄以(豊臣秀吉の五奉行の一人。僧侶出身)が池田輝政に勧めて再興をさせたという。日置猪右衛門により大光院と改称された。大光の二字は通翁(鎌倉時代の僧、通翁鏡円。諡号が「普照大光国師」)にちなむという。


 日置忠俊(豊前守)の戒名に「大光院殿」の文字を見ることができる。また、明治二年の侍帳に「菩提寺 大光院」の名が見え、一五〇石五〇俵が給されている(『岡山県通史』下、頁三一七)。
 大光院はかなり前から廃寺となっており、平成二九年一月一七日に我々が見学に赴いたときは、春浦院により管理されていた。

収骨碑写真 日置忠俊墓碑
(平成二九年一月一七日撮影。左が収骨碑、右が日置忠俊墓碑。)

【収骨碑 表の碑文】

瀧善三郎収骨碑

甘んじて死す、軽き鴻毛のごとく。国のため、家のため。
王公は慨嘆され、吾君も長く嗟(かな)しむ。
義は魄、忠は魂。漓乎として悠久なり。
深谷が陵(おか)となるほど世が変わっても、名は何ぞ朽るべき。
深谷為陵:高岸為谷、深谷為陵(「詩経 小雅・十月之交」)

軽毛:人固有一死、或重於泰山、或輕於鴻毛、用之所趨異也(司馬子長「報任少卿書」)。


【裏面】
慶應四年戊辰二年九月
瀧正信行年三十二割腹
而死記其事蔵干寺云■ 欠落により判読不能


 碑文は、『神戸事件瀧善三郎正信の京師大光院跡収骨之碑確認報告』の六頁の記述と現地での見学をもとに作成した。訳文は編者が作成した。裏面は同書の七頁の記述をもとに作成した。
【参考資料】

  1. 『妙心寺史』上巻、川上孤山著、妙心寺教務本所、大正6年刊。頁三一七―三一八
    妙心寺史(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. 『岡山県通史』下、永山卯三郎編、岡山県通史刊行会、昭和5年岡山県刊。昭和四六年、同五一年復刻。参照したのは、昭和五一年復刻版。頁三一二―三一三、三一七。
  3. 『神戸事件瀧善三郎正信の京師大光院跡収骨之碑確認報告』御津町瀧善三郎を偲ぶ会、平成元年刊。
 

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