慶応四年神戸事件を考える

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Ⅸ.処 断

1.二月九日 切腹(陽暦3月2日)

 慶応四年二月九日の朝の天気ははっきりしないが、雨天ではなかったようだ。関係者はみな眠れただろうか。

(1)準備

〇五代才助、寺島陶蔵、中島作太郎が伊達の宿舎を訪れ、相談。
 五代が瀧善三郎の一命だけは助けたいと言ったが、伊達は明確に答えを出さず、政府が決めたことを横から彼是口を挟むことはしてはならない、これは西洋各国では通例であると言った。しかしながら、駄目だ立腹することもしなかった。そのことを心がけるならば外国公使へも言っても良いということだったので、後刻に会議をすることとなった(※1)(『伊達宗城公御日記 慶応三四月より明治元二月初旬』頁38)

▽資料・伊達宗城公御日記/御手留日記/大日本外交文書

『伊達宗城公御日記 慶応三四月より明治元二月初旬』頁三八

五代より瀧善三郎一命丈助度事同人考ヲ以話候処しかと決答えハ不致政府にて決候儀ヲ他より彼是口付候事ハ不相成事西洋各国通例と申候乍然不相成と立腹モ不致尚其心懸モ候ハヽ外公使ヘモ申述候而宜敷との事故後刻会議ヲ約置候也


『御手留日記』頁四五

同九日 晴
(中略)
〇五代、寺島、中島参候
〇サツ長へ、備前士今夜処置の事に付、警備且取扱の義申聞候。
〇備前留守居へも申聞候事
〇九時「プロイセン」「イタリア」公使参候
〇東久世より自書来る、京にて待候由
〇一字蘭公使来る、「プロシア」戦争図入書到来、昨日約束也
〇五代、伊藤より助命応接取懸候故、瀧之処置両人寺へ参候迄待候様、寺島 中島、両書一封来開ク


 『大日本外交文書』第一巻、第一冊
一四三 二月十日 鹿児島藩山口藩及岡山藩ヘノ達書
 神戸事件ノ岡山藩処刑執行ニ付警備ノ件()() 二月九日薩長岡ノ三藩ヘ達シタルモノト見認ム」
一 寺之儀者(は)両藩備藩与(と)申合取窮可申事 永福寺
一 警衛向者(は)両藩申談取窮候而(て)宜候事
一 外国人応対之儀者(は)伊藤俊介江(へ)引合候様可致事
二月九日申渡候(以下略)

▲たたむ

〇伊達宗城、この時兵庫警備を命ぜられていた薩摩藩と長州藩に、今夜岡山藩士を処断することを伝え、警備及び取り扱いを命じる。
(『大日本外交文書』第一巻、第一冊一四三)(『御留日記』頁45)

〇岡山藩留守居・澤井権次郎、下野信太郎の二人が伊達宗城の宿舎(兵庫本陣)に参上。四つ時(午前十時頃)伊達宗城に拝謁した。

伊達宗城の言葉は次の通り
•今般の神戸一件、昨日各国公使と会談した。いよいよ今日九日暮過ぎに、兼ねて朝廷から御沙汰があった通り、取り計うこととなった。そのように心得ておくように。
•本件は東久世殿が御下りになり、取り計らわれるべきところであるが、京都でご多忙につき、私が赴き、取りはからうこととなった。
•その上、京都から刑法局の者が下ってくるはずのところ未だ到着していない。このままでは時間がたつばかりなので、先ほど仮に薩長両藩の隊長へこの場の担当を申し付けたので、諸事は両藩へ相談するように。
特段の御意
誠にこの度のことについて貴藩は何とも気の毒千万なことである。死罪だけは許したいと昨日もさんざん協議したが、王政復古により御一新の外交の折柄、何とも致し方ない。実に人情としては忍びがたい次第であるが、止むを得ない事情である。
全く朝廷の為、一国一家のためと思い、よくよく考え、潔く決断致すべきことである。この段、本人へ厚く申し聞かすべし。

伊達はこれらのことを懇々と言い聞かせているうちに、自然に落涙し、澤井権次郎達はその誠心に心を打たれたようである。
 澤井達は、その場で伊達の指示を承諾。そして、伊達の同情に感謝し、退席した。

〇その後、指示された通り、薩長両藩の隊長に諸事談判し、直ちに同行して寺院を五、六カ所も吟味した。適当な場所もなかなかなかったが、兵庫中ノ町永福寺(※2)に取り決めた。永福寺へは、伊達より正式に通達することになる。(『兵庫一件始末書上』)

▽資料・兵庫一件始末書上[六]
『兵庫一件始末書上』(池田家文庫 資料番号「S―6-128-1」)
一 同九日両人宇和島侯御本陣江罷出候処、四ツ時頃
両人共拝謁被仰付候而、御演説左之通り
今般神戸一件昨日各国公使江応接致候処
弥今九日暮過兼而
朝廷旧字より御沙汰被為在候通り取斗候間、左様
相心得可申候、全体此一件ニ付而者東久世殿御
下りニ而御取斗可相成之処、京師御多忙ニ付
拙者罷下取斗申候、其上京師旧字より刑法局之者
罷下候筈之処、未タ着モ不致追々時日も相延
候ニ付、只今仮ニ薩長両藩之隊長江当席
掛申付置候間、諸事両藩江相談可致候
別段御意
誠ニ此度之義ニ付而者於貴藩何共気毒
千万
朝廷ヲ初於此方精々尽力、何卒死罪だけ
者是非宥さんとて、昨日も種々談判致候得共
御復古御一新御交際之折柄、如何共致方無
之場合ニ至り、実ニ人情不忍次第ニ候得共、不得止
義全く朝廷之御為一国一家之為ト思ひ、篤
与勘弁致潔よく決極可致、此段本人江厚く
可申聞との御趣意懇々有之、其内自然御落
涙御誠心之程実ニ相顕居申候
則御請仕且不一方御配慮之段厚御礼申上両人共退
出仕候、夫旧字より薩長両藩之隊長江諸事談判仕直ニ同行
寺院五、六ヶ所も吟味仕候得共、相当之場所も無御座、其内
兵庫中ノ町永福寺ニ取極メ引取申候、尤取極候寺院
江者、正面宇和島侯旧字より御達ニ相成候由、

▲たたむ
 午後になって五代才助と伊藤俊介が居留地に赴き、外国公使団に瀧の助命を申し入れた。
 瀧が永福寺に向かい、岡山藩が切腹の準備をしているとき、彼らは外国公使団と交渉し、協議の結果を待っていた。

(2)切腹の場へ

〇午後に岡山藩御徒目付・中堀惣右衛門がこれらのことを聞き、すぐに瀧善三郎の宿へ向った。徒目付立会いのもとで、伊達宗城の言葉を本人に申し伝えたところ、池田伊勢配下(天城池田家)の重役・佐藤佐源次を通して、承知したとの返答があった。
〇直ちにその席に待機していた関係者が、澤井権次郎とともに永福寺へ向かい、下検分して、必要なことを打ち合わせた。永福寺は海に近い。
 そのなかに、佐藤佐源次ほか、介錯・宮崎慎之介、介添・笹岡八郎など日置家の者もいた。(『兵庫一件始末書上』「瀧善三郎自裁之記」『御津町史』頁393)

〇暮れ六つ(午後六時)頃、瀧善三郎が準備ができたので出発したい、と言って来たので小広町にあった脇本陣桝屋長兵衛方から出発した。

旅籠町周辺地図 脇本陣桝屋長兵衛方のある小広町から、南仲町にあった永福寺はすぐ近くである。
「瀧善三郎自裁之記」によれば、「夜一同盛服(※3)にて行く」とある。隊列の先頭は天城池田家(当主・池田伊勢)の側頭・佐藤佐源次が勤め、瀧善三郎を乗せた駕籠、下働きの者の後に、原田権左衛門が鉄砲隊を引き連れて後詰で進んだ。その後を日置家の面々が続いた。

 永福寺の両側には多くの民衆が詰めかけ、経を唱える者もいた。永福寺の表門には幕が張られ、提灯が出されていた。門内には篝火が揺らめき、長州藩と薩摩藩の兵士が警備に当たっていた。
(「瀧善三郎自裁之記」に、篠岡と角田が、敷物毛布二枚、三宝一個を用意し、脇差の握りへ奉書紙を巻き切先三分を残すなどの準備をしたことが記されている。)

 永福寺の建物の奥の間に瀧善三郎と佐藤佐源次が待機した。二の間に介錯の宮崎慎之介、介添の笹岡八介、角田勝吉、坂口吉之介など日置家家来と徒目付・中堀惣左衛門(見届)、岸本鹿之助(同付添)ら岡山藩士が詰めた。
 三の広間に岡山藩京都留守居・澤井権次郎、岡山藩外交方・下野信太郎、伊達宗城の使者(宇和島藩士・須藤但馬ヵ)、外国掛り中嶋作太郞、薩長隊長四人(薩摩藩・新納軍八、小倉壮九郎、長州藩・深栖多門、祖式金八郎)が詰めた。
 当初、外国事務掛・伊藤俊介及び外国側検証人は永福寺にいなかった。なぜなら、彼らは神戸居留地の運上所(仮公使館)(※4)で、刑の執行について長い議論をしていたからだ。
 薩摩藩の岩下と寺嶋(※5)の使いが来て、薩長の隊長に面会し、「今夜暮過ぎに外国検証人が来るはずであったが、いささか応接することがあって、伊藤俊介と五代才介の両人は英国公使館へ行っている。遅刻することになっても両人が出席するまでは、執行を差し控えるように」と言ってきたのだった。
(この部分は、『兵庫一件始末書上』「瀧善三郎自裁之記」『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人え発砲之始末書類』『御留日記』から作成した。)

【永福寺配置図】
永福寺配置図
▽資料・兵庫一件始末書上[七]/瀧善三郎自裁之記
『兵庫一件始末書上』(池田家文庫 資料番号「S―6-128-1」)
昼後御徒目付
中堀惣左衛門右御趣意趣申聞、直ニ本人下宿江罷
越御徒目付同席立合ニ而、御趣意趣夫々本人江申
伝候処、佐藤左源治ヲ以御請仕候、直ニ当席関係之者
同行永福寺江罷越、下見分其場之都合打合せ仕置申候
暮六ッ時頃本人用意調ひ候ニ付、出足之趣申越候ニ付
引続き両人共寺院罷越申候、当寺座敷奥之間江
本人左源治警固、次ノ間ニ御徒目付中堀惣左衛門
附添岸本鹿之介、帯刀殿旧字より之介添介借人共三ノ広間
外国事務掛徴士参与伊藤俊介、外国掛り中嶋作
太郞、薩長隊長四人、宇和島侯御使壱人、権次郎
信太郎、次ノ間ニ外国人七人休息、其次ニ薩長之番
士拾余人相詰居申候、此内薩藩岩下、寺嶋之使来り
薩長隊長ニ面会致、今夕暮過外国検証人参り
候筈之処、聊応接之義有之候ニ付、伊藤俊介、五代才助
両人英国公使館江参り居申候間、遅刻ニ相成候とも
両人内出席仕候迄者指控可申段申来候由、暫して


「瀧善三郎自裁之記」『御津町史』頁三九三
 九日晩外交掛澤井権次郎より愈々今夕と決定したれば割腹の場所を内見し置くべしと申来りたるに付予及び角田勝吉、宮崎慎之介其他佐藤佐源次等兵庫に赴き浜手寺院永福寺に至り内見を遂げたり。
 其夜一同盛服にて行く、先駆は佐藤佐源次銃卒を率い、次に本人の駕籠、下人本藩物頭原田某銃卒を率いて後押となり列外として予等主家の者一同下人槍卒を従え之に続く、道筋両側の町民声々に南無妙法蓮華経或るは南無阿弥陀仏と唱え一際哀れを添え聞くに忍びず、永福寺の表門は菊花を染めたる紫の御幕を張り提灯を立て、門内右手は長州兵、左手は薩州兵整列して之を固め、玄関入口は本藩蝶紋の御幕張にて勿論提灯を出しあり、一行到着控の座敷に入る。
 余は角田を呼びて共に用意に取掛り敷物毛布二枚、三宝一個を取り出し、刀は脇差の握りへ奉書紙を巻き切先三分を残して準備をなす、

▲たたむ

(3)助命交渉

 瀧善三郎をはじめ岡山藩と日置家の関係者は永福寺に入り、待機していた。しかし、外国側検証人及び伊藤俊介が現れなかった。
 時間を少し戻す。午後になって五代才助と伊藤俊介が瀧の助命を外国公使団に要請した。彼らは、要請に赴く前に「瀧の助命交渉に行くので、我々が寺に行くまで、切腹を待つように」という寺島、岩下への手紙を託して行った(『御手留日記』頁45)。
 外国公使団は五代らの要請を受けて、約三時間に及ぶ討論(※6)を行った。場所は運上所(仮公使館)であると思われる。
 しかし、助命の願いは否決された。英国公使・パークスとオランダ公使・ポルスブルックが刑の執行延期を主張し、他の四公使、フランス公使・ロッシュ、アメリカ公使・ファルケンバーグ、ドイツ公使ブラント、イタリア公使・ラ・トゥールは執行を支持した。
 別室で控えていた伊藤と五代は、午後八時半に呼びもどされ、執行する以外にないと告げられた。(『遠い崖』6、頁289)
 それから五代と伊藤、外国側の六人の検証人は永福寺に向かって出発した。午後九時になっていた。(同前、頁292)


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補注

※1.瀧の助命に関する伊達と五代のやりとり
 この文章は『伊達宗城公御日記 慶応三四月より明治元二月初旬』頁38を元にサイト管理人が口語訳した。「乍然不相成と立腹モ不致尚其心懸モ候ハヽ外公使ヘモ申述候而宜敷との事故」の文章は意味が取りにくく、立腹したのが伊達なのか五代なのか判断が困難なところがある。検討した結果、口語訳のようにした。

※2.永福寺
 南仲町にあった浄土宗の寺院。[兵庫県の地名Ⅰ、日本歴史地名体系二九-一、平凡社、1999、頁111]。
 第二次世界大戦の空襲で昭和二十年焼失[能福寺前の説明板]。平成二十九年五月現在の地名は神明町1-1周辺。[神戸市兵庫区役所への問い合わせの回答]
 安政五年(1858)、長州藩は海防の持ち場をそれまでの相模国から「摂州兵庫表海岸」の警衛に変更された。幕府から打出陣屋の土地が下げ渡されるまでの間、長州藩は兵庫津の諸寺院に分駐することによって、暫定的な駐屯体制を整えた。この時、分駐した寺院のなかに能福寺(天台宗、兵庫津)がある。
 また、慶応三年十一月に長州・薩摩・安芸が東上して京都を窺う行動に出た時、西宮地方は討幕軍の重要な根拠地となった。この時、長州藩の西宮における陣営は、本陣(小荷駄方を含む)が六湛寺、奇兵隊が海清寺、整武隊が正念寺、鋭武隊が西安寺、膺懲隊が順心寺、第二奇兵隊が信行寺、病院が積翠寺、遊撃隊を昆陽口に、振武隊を打出親王寺に配置した。(西宮市史)
 岡山藩兵が西宮警衛の本拠としたのが打出陣屋であり、総督・池田伊勢が宿営したのは六湛寺如意庵である。
 これらを踏まえて考えると、西宮警衛はもちろんのこと、神戸事件の収束についても長州藩の影響力が大きいことが分かる。
 幕府の長州征伐の時、周旋を試みた岡山藩への同情があったかどうかは、資料からは読み取れない。

【参考資料】
  1. 長州藩と「兵庫御備場」そのⅢ―兵庫津諸寺へ駐屯―、竹村勝昌著、歴史と神戸、55号4号、頁1―22
  2. 兵庫県の地名/Ⅱ[日本歴史地名大系二十九巻一]、平凡社地方資料センター編、平凡社、1999年刊。ページ252。
  3. 西宮市史/第二巻、魚澄惣五郎編、西宮市、昭和35年刊。頁996から997。
  4. 御奉公之品書上.池田貞彦。岡山大学附属図書館所蔵、池田家文庫、資料番号 D3-9

※3.盛服
 「瀧善三郎自裁之記」は、篠岡八郎(八介)が明治三十年代に書いたものを、昭和十五年に笹岡春太が改写したものである。盛服の後に、春太の補記として(小具足)とある。『国語大辞典』の記述のなかで服装に該当する「鎧を着けずに甲冑の付属具、籠手、脛当などを身につけた服装」ととれるが、一つは『兵庫一件始末書上』の「野服」と異なることと、戊辰戦争後半の岡山藩兵及び農耕隊などの服装などから考えると、古めかしい気がする。

【参考資料】
  1. 国語大辞典、尚学図書編、小学館発行、昭和五十六年
  2. レンズが撮らえた幕末維新の志士たち、小沢健志監修、山川出版、2012年
     頁52―57に岡山藩兵として遊奇隊、東征軍の岡山藩兵ほかの写真が掲載されている。 西宮警衛隊の出張総督である池田伊勢の天城池田家・側頭(『新修倉敷市史』第三巻、頁107)の布施藤五郎は頭はちょんまげ、筒袖、ズボンである。左腕に釘抜の合印(写真では白い布に見える)がついている。
  3. 備前遊奇隊東征記、太田修平編・発行、昭和十七年。岡山市立図書館内岡山古文書研究会による複製
     前記と同じく筒袖、伊賀袴(たっつけ袴)とある(頁11)。また釘抜の合印(頁8)もつけていた。

※4.運上所(仮公使館)
 『兵庫一件始末書上』では、「両人英国公使館へ参り居申候間」とあるが、瀧の助命に関する協議は六ヶ国の公使が全員参加しており、協議自体は、運上所(仮公使館)で行ったと考える。

※5.岩下と寺島
 いずれも薩摩藩士。
〇岩下方平(いわしたまさひら):佐治右衛門。慶応元年家老。薩英戦争後の和平交渉に重野安繹とともに当たった。慶応二年パリ万博に際し、薩摩藩使節として渡仏。王政復古に当たって西郷隆盛、大久保利通と共に参与に任ぜられた。明治元年(慶応四年)二月外国事務局判事。
〇寺島宗則(てらじまむねのり):寺島陶蔵。安政三年幕府の蕃所扱所教授手伝、文久元年幕府使節団に参加して渡欧。慶応元年薩摩藩遣英使節団員として渡英。明治元年(慶應四年)正月参与外国事務掛となる。
【参考文献】
明治維新人名辞典、日本歴史学会編、吉川弘文館発行、昭和56年

※6.約三時間に及ぶ
 この記述は、『遠い崖』6、頁289によった。ドイツ公使ブラントの回顧録『ドイツ公使の見た明治維新』頁141では、「ほとんど五時間にも及ぶ議論」、『御手留日記』頁46には「二字(時)間密談」とある。