慶応四年神戸事件を考える

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Ⅱ.岡山藩兵の出撃

3.一月十一日(陽2月4日)昼まで

 ( )は西暦1868年の日付。

(1)大蔵谷から兵庫へ

 慶応四年正月十一日大蔵谷宿出立。兵庫宿までは約五里、そこから西宮まで五里である(『五駅便覧』「弐ノ内 中国路」)。警衛の本拠である打出陣屋はその手前にある。高低差がほとんどない十里弱の道のりは、この時代の人にとっては一日の行程である

淡路島  日置隊は海沿いの西国街道を進む。この日の天気は、資料をいくつか調べてもわからなかったが、少なくとも雨ではなかったようだ。外国外交官の事件前の記録を見ても、特に荒天のようではない。建物がほとんどない居留地にしても強風があれば、砂ぼこりが激しかったはずだが、そういった記述もない。まずまずの天気だったのではないか。ただし、海沿いの風は冷たい。
 途中淡路島を南に見て、さらに舞子台場などの砲台の近くを通過したはずだ。

 明石藩は鳥羽伏見の戦いのとき、幕府方である。通過中はお互いに緊張したと想像される。もちろん姫路通行の際と同じく、銃には弾が込めてあっただろう。
 この時、西国往還付替道(徳川道)を通行しなかったことをもって衝突の原因としている資料やサイトがある。
 鳥羽伏見ですでに殺し合いが始まっている。隊員の誰も通ったことがない、できたばかりで情報もほとんどない山道である。敵と味方の区別も曖昧な状況でもある。
 私が指揮官であれば、慣れた道を選ぶと思う。大砲や予備の弾薬や生活のための荷駄を抱えた隊列を率いて進むには、西国往還付替道は不便で危険すぎる。

 境川を過ぎれば、摂津の国である。須磨を過ぎると街道は海から離れる。ゆっくり南に下ると兵庫である。

(2)兵庫

【神戸市史.附図 第五図】
(神戸開港三十年史史.附図) 

  国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)。一部説明を加筆した。

 太線の西国街道は西から柳原惣門(現在蛭子神社がある)を通って兵庫の町に入る。柳原惣門は片側の扉一間の高麗門で、高札場と番所が隣接していた。(『兵庫津柳原惣門跡現地説明会資料(兵庫津遺跡第29次調査)リンクマーク』サイト確認 2019/12/31)

 兵庫の町は兵庫城の外郭である都賀堤と堀によって守られていた(同前)が、慶応四年正月十一日には、治安を維持する力は内部から失われていた。
 兵庫奉行である柴田剛中始め谷町代官斎藤六蔵らも二日前の正月九日に神戸から退避し、兵庫勤番所の地付役人は内達をうけて勝手しだいに離散した(『兵庫県史』第五巻、頁644)。執行する者がいなければ当然、統治機構は機能しない。兵庫県史には記述がないが、大坂町奉行らが退散した大坂と同じように略奪などが行われたことは想像に難くない。

▼管見1

 この時、誰が兵庫の治安を守るべきか、判断が難しい。「大政奉還」の後でも、行政権は幕府にあった。しかし、「王政復古の大号令」では、徳川慶喜に「納地」を求めた。さらに、ここに至って、旧幕府統領の徳川慶喜を賊として、その追討と領地の没収(新政府の直轄領)する「追討令」と「農商布告」を発している。
 もし、新政府が正当な政府であれば、この時、大坂町奉行・兵庫奉行にその地を管理する権限はなくなっている。
 同じようなことは、遠国奉行の管理する長崎でも起きている。鳥羽伏見の敗戦の報が届くのが遅かった長崎では慶応四年正月十四日に奉行河津祐邦が長崎を脱出している。外国船(祐邦はイギリス船、剛中はアメリカ船)での脱出も共通しているが、争闘の地に近い兵庫の方が危険も大きい。(長崎奉行に関しては、『長崎奉行―江戸幕府の耳と目―』頁178―180)。
 彼ら幕府官僚の権力の裏付けは、幕府であり、その統領の将軍である。将軍が賊として追討の対象となり、領地が別の権力機構に組み込まれた後では、彼らの権力は消滅する
 柴田や河津の退散の無様さを記す資料もあるが、彼らは中央から派遣された官僚に過ぎず、役割以上の結びつきは地元組織にない。逃げる以上に何ができただろうか。彼らが戦わず退散したことで、戦乱が起きずにすんだとは考えられないか。
 戊辰戦争は内戦であった。このことが現在のわれわれ、特に西日本の人間にはわかりにくい気がする。

 『兵庫県史』第五巻に、兵庫・神戸警守の阿波藩が、積極的に動く気配はなかったことが書かれている(頁644)が、大坂でも治安の安定のために、地付き役人の再雇用と組織の編成が必要だったように、若干の外部兵力が駐屯したからといって即効があるわけではない。阿波藩へ兵庫警備のための派兵命令の日付は正月になっている(『兵庫県史 史料編 幕末維新Ⅰ』頁565―566)。派遣されたばかりの阿波藩は動けなかったと思う。
▲たたむ

 日置隊は柳原惣門をくぐり、兵庫の町に入る。惣門横の番所も無人だったのではないか。さらに言えば、室内が略奪されていた可能性も大きい。

 南東に進み、札の辻(札場の辻)までの南側に神明町や南仲町がある。神明町に来ると、西側に井筒屋(衣笠)又兵衛の本陣があり、本陣に南接して明石屋宗兵衛、小路を隔てて西側の小広町に豊島屋宗兵衛、同町の東側に桝屋長兵衛(または長左衛門)、その南隣に三木屋作右衛門の4軒の脇本陣があった(「知れば知るほど 兵庫区歴史花回道」による。以下「花回道」)。多くの旅籠があったので旅籠町と呼ばれた(兵庫県の地名Ⅰ)。
 後に瀧善三郎が待機する脇本陣桝屋長兵衛方、切腹した永福寺もこの一帯にある。

『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写 同人遺書并辞世之歌』では、「十一日 兵庫御昼」と簡潔に記すが、『明治維新神戸事件』で岡久渭城は、岡山藩浜本陣の網屋新九郎方で昼食を摂ったとする(※1)。出在家町の網屋新九郎方で昼食を摂ったならば、兵庫勤番所を通過した可能性も高い。おそらくここも荒廃していたことと思われる。
 治安の混乱した兵庫で三百四十人の食事を用意するのは大変である。経済上にも繋がりがある浜本陣を頼ったことは想像に難くない。典拠となる資料は確認できなかったが、備前藩と懇意な浜本陣があれば、そこで食事をするのは自然だと思う。
 もっとも、浜本陣で昼食を摂ったとしても、全員がそのなかで食事ができることはなく、周囲に分散したと思われる。参勤交代などでも、大名と重職は本陣や脇本陣に泊まったが、一般の家臣は周囲に宿泊し、本陣が食事を配布したようだ(『歩きたくなる大名と庶民の街道物語』頁107)。

 昼食後、八つ(午後2時頃)に浜本陣を立った(「高須七兵衛聞書」)。日置隊は西国街道にもどり、東の惣門(現在、湊口八幡神社がある)から兵庫を出る。居留地は、兵庫から4キロの距離とあるが(「外国人居留地の構造」、『歴史地理学』、頁60)歩いた実感ではもう少し短い。

(3)神戸

 居留地の西の関門番所(※2)がどれくらいの規模か不明であるが、幕府側の役人は退散し、内部も荒らされていたと推測する。
 居留地に近づくほど見物人が増えたと思われる。そのうちのかなりの部分が外国人だったようだ(※3)。彼らは日本の軍隊を見物しようと集まってきていた(『ドイツ公使の見た明治維新』頁133)。
 山側にはいくつの建物があり、その背景は農耕地だったようだ。海側の居留地は既存の建物を取り壊したあと運上所と倉庫三棟、それに船着き場しかできていなかった。更地が広がる居留地は殺風景だったろう。その先に三ヵ国の国旗がはためく運上所が見えただろうか。二日前に三ヵ国の公使団が居住を始めていたなどということは知る由もなかっただろう。
 衝突前後の外国人の供述書などを読むと、山側の家には外国人が住んでいたものもあり、居留地側及び建物の前に立って見物していたようだ。
 日置隊士のほとんどにとって、初めて見る夷人だったと思われる。西国街道を進む日置隊には、姫路城下を進軍した時とは別種の緊張があったのではないか。

【居留地周辺図(慶応年間港全図)】
居留地周辺図(慶応年間港全図) 
 『神戸開港三十年史』頁211の2頁前の挿図「慶応年間港全図」から作成した。国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)。(居留地周辺図について※4

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補注

※1.浜本陣について
 西国大名江戸への参勤交代の往返には其途次兵庫に宿泊し又は休憩する者多く、これがため若干諸侯は宿本陣以外に別に各々自家専用の本陣を有し、此等の本陣は之を浜本陣と呼びて、その数時代によりて不同なりと雖、幕末には九軒を算し、いづれも諸問屋業を営むと共に其等諸藩より来る船舶の乗員をも宿泊せしめたるのみならず、併せて其国産をも取扱ひ、又大坂へ輸送すべき米を積める船舶に対し、兵庫入津の先後によりて順番手形を与ふる特権をも有し、これによりて莫大なる利益を得(後略)
(神戸市史p10 一部の漢字を常用漢字に変更した)
 なお、衝突のあと外国外交団側の声明文の写しが、備前藩の浜本陣網屋新九郎方に掲示されたとする資料がある(『神戸と居留地』p129。サトウは、「第一枚目の布告文を備前の官用宿舎(本陣)の戸口に貼りつけ」たとする(『一外交官の見た明治維新』下、頁133)。おそらくこの浜本陣網屋新九郎方であろう。
 浜本陣があった出在家町について、神戸市兵庫区役所に問い合わせ、同区役所まちづくり課が作成された「知れば知るほど 兵庫区 歴史花回道」を教えていただいた。また、神戸市立兵庫図書館にも懇切な対応をいただいた。

※2.西の関門について
 現在、元町商店街の西入り口の建物外壁に西の関門跡を示すプレートがある。このプレートの場所が、居留地の西の関門であるということを、資料で確認できていないが、位置関係から推定して矛盾がないように思える。

※3.神戸開港前後の外国人について
 開港から一月しか立たない神戸に商人など一般外国人は非常に少なかった。明治二年の統計でも、清国人を除いて合計185人しかいない。(『外国人居留地と神戸-神戸開港150年によせて-』頁78「表1」)
 いっぽうこの時期、かなりの兵士がいた。
 それぞれの領事館が開館しており、その警備の兵隊に加えて、洋上には開港式から碇泊していたオーシャン(Ocean)などの残留艦船を含めた11隻の大艦隊が停泊しており、約2000名近くの戦闘員が乗船していた。陸上業務を命ぜられたり、休暇を与えられて上陸していた兵も多くいたのではないか。これに公使達とともに神戸に来た護衛隊が加わり、合計すれば相当数の兵士が居留地および周辺にいたと思われる。

【試算】慶応四年正月十一日当時、神戸にいた外国艦船及び戦闘員
 神戸開港の前から海上に多数の艦船と兵士がいた。装備している砲数、乗っている兵員数を見れば、戦闘を前提とした艦船である。
 『神戸開港秘話~「神戸事件」当日の神戸沖外国艦隊~』は、外国軍と日置隊が衝突した時、沖にはイギリス8隻、アメリカ2隻、フランス1隻の艦船がいたとする。一方、『国際都市神戸の系譜』では、開港時に停泊していた18隻の艦船の兵力を3,900名と算出している。
 これらの資料をもとに考えれば、衝突時神戸港の艦船11隻の武力は、装備砲153門、戦闘員1,500名から2,000名となる(前記資料に基づき算出)。
 馬関戦争時の四ヵ国連合艦隊17隻、砲288門、兵員5,014人よりは少ないが、薩英戦争時のイギリス艦隊7隻、砲89門、乗員1,360名よりはかなり多い。
【補足】
 薩英戦争時のイギリス艦隊は、『鹿児島県史』第3巻(鹿児島県編・発行、昭和49年刊・昭和16年刊の第二次復刊)頁204の表から算出、馬関戦争の四ヵ国連合艦隊は、『世界大百科事典』22巻(平凡社、改訂版2006年刊)頁412による。

 前述のように『遠い崖』6(頁181)によれば、神戸への避難の途中、大坂で荒らされたフランス領事館を調べるために調査されたフランス兵は13人である(ただし『ポルスブルック日本報告』頁214では25人)。フランス公使護衛隊の全体は、もっと多いだろう(そのうち一人が、日置隊と揉め事を起こす)。
 アメリカ公使ファルケンバーグの報告によれば、イギリス公使は大坂から立ち去るとき70名の護衛を連れていた(『遠い崖』6、頁179)。さらに、兵庫奉行・柴田剛中から借り受けた運上所(彼らが言う仮公使館)に、アメリカ海兵隊も同居していた(ただし、人数はそれほど多くないと思われる)。
 これらを合計すると100名を超えるのではないか。仮に、日置隊の隊員数が340人で、『軍役之定』(池田家文庫、資料番号H2―36)の「戦兵并雑人覚」の通り、半数が雑人であれば、公使護衛隊・領事館守備隊・海兵隊などだけで実際の戦闘員は互角に近かった可能性もある。さらに、休暇で買物などをしていた艦船乗員のうち、ピストルなどの武器を携行していた者も少なからずいただろうと思われる。

※4.居留地周辺図について
[神戸開港三十年史・211の2頁前の挿図「慶応年間港全図」に「兵庫県御免許 開港神戸之図」などを参照して加筆。 ファルケンバーグ(アメリカ弁理公使)が自国の国務長官へ報告した文書では「外国人居留地は幅約四百ヤード(約366メートル)、奥行六百ヤード(約549メートル)の広く四角形の平地」と記している。
鯉川の西川には、フランス・ドイツ(プロイセン)・アメリカの領事館があった。
 兵庫県裁判所(兵庫県庁の前身)の文字が見えるので、慶応四年(明治元年)二月二日~五月二十三日の期間の図ではないか。真ん中の黒い縦線は、頁の区切り。『神戸今昔散歩』頁22などを参考に説明を加筆した