慶応四年神戸事件を考える

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Ⅲ.衝突

3.衝突の結果

 最終的に銃撃戦となったが、実際の被害はそれほど大きくはない。物的被害についてはむしろ日本側が大きい可能性がある。互いの主張を記述する。

(1)物的損害

①外国側

 西国街道沿いの家の戸などに槍を突き立てたという記述もあるが(『ドイツ公使の見た明治維新』頁134)、居留地の北側で最初のいざこざが起き、日置隊が発砲した浜側(居留地)には、運上所と倉庫以外に何もなかったので、外国側の大きな物損はない。また、運上所は彼らのものではない。
 外国公使の回顧録に記述され、後になって岡山藩が新政府から詰問されることになったのは、運上所に掲揚されていた国旗の損傷である。
 運上所は、二日前の一月九日アメリカ・プロイセン(ドイツ)・イタリアの三ヵ国の公使が、兵庫奉行・柴田剛中に申し入れて借りたもので、仮公使館と称していた。
 この建物に掲げられていたのは前記三ヵ国の国旗である。

運上所   左写真は明治6年12月に竣工した神戸税関初代庁舎である。状況を想像する手がかりとして掲載した(神戸市立博物館掲示。写真利用許可)
 実際の運上所の図は、『神戸地域学』頁25に掲載されている。図が小さいので、明瞭とは言えないが、二階建てで、大屋根が覆っている。ベランダらしいものが側面に見え、二階の窓が三か所確認できる。窓のガラス窓がきれいなのでビードロの家と呼ばれたとする資料もある(『神戸地域学』頁20)。
 ファルケンバーグは建物に何発か銃弾が当たったと報告するが(『神戸事件』頁120)、このガラス窓の損傷の記述はない。

 国旗の損傷についてブラントは次のように記す。

 彼らは税関の上に翻っていたアメリカ合衆国、イタリア、北ドイツ連邦のそれぞれの国旗を狙ったものらしく、少なくとも北ドイツ連邦の旗にはたくさんの弾痕があった。(『ドイツ公使の見た明治維新』頁134)

②日本側

 日本側の資料では明確に記していないが、外国側の反撃に遭遇した日置隊はいろんな物を放置したり落として逃げたようだ。

『瀧善三郎自裁之記』に、「高須環、山村金吾、大森信輔、瀧兄弟(追記源六郎、善三郎)小神後平六及水河松三郎のい瀧善三郎の衣服箱は人夫之を捨て去りしものか終に紛失せり」とある(『御津町史』頁388―389)。この為、瀧善三郎は切腹に際し、紋服などを借りたとされている(『同』頁391)。
 また、大砲の損失については、先に山崎喜兵衛の報告の意訳を示したが、引手を失った大砲はすべて失われた。前記外国側の記述にある三門の大砲がそれと符合する。
 外国側資料では、落とし物を揶揄している。

▽資料・ミッドフォードの回顧録など
英国外交官ミッドフォード
備前兵は大急ぎで逃走し、その途中でいろいろな荷物を落としていった。各種の日曜雑貨品が入った荷物のほかに、小型の野戦砲二門や、大森信輔なる者の文机もあり、そのなかにはコトザワさんという名の、けっしてまじめとは言えない若い娘からの熱烈な恋文が入っていた。(『ある英国外交官の明治維新』頁106)
英国外交官サトウ
敗走兵の落として行った荷物を開けたところ中身は火縄銃と榴弾砲との合の子のような小武器三挺と、数個の大工道具だけで居留地に引き返してみると、そこにはブルースによって阻止された敵兵が落として行った荷物がうんとあった。(『一外交官の見た明治維新』下頁131)
アメリカ公使ファルケンバーグの国務長官への報告
日本人の荷物類、薬箱など多数残されたるも、三門の真鍮製大砲を帰艦に当り水兵持ち来れり。(『神戸事件』頁122)
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 一月二十四日に西宮の津田孫兵衛(日置家家老)から岡山の板津喜左衛門(日置家家老)への手紙で、「ミニニ銃 ニ十丁」(ミニエー銃か)、「足軽六十人分の鉢巻と肌着・股引」を、公用船で送るように要請している。(「津田孫兵衛書簡」『御津町史』頁1147―1148)。武具の損失を補う為であった可能性がある。

(2)人的損害(外国側)

①外国側
 死者はいない。外国側の資料によれば負傷者も数名で軽傷である。確認できる被害者は胸部に銃弾を受けたアメリカ軍艦の見習い水夫(「ファルケンバーグの報告」では、オネイダ乗組見習少年ウォルター・G・クラーク)である。ただし、貫通しなかったので軽傷であったと記されている。
 他には、行列を横切ったキャリエールが槍で突かれている。パークス報告には、コリンズが殴られたことが記載されている(「神戸事件」ページ111)。ポルスブルックが記述するイギリス士官二名やイギリス商人を含めたこれらの人々の負傷の程度は他の資料では確認できなかった。賠償要求に結び付くような大きな負傷はなかったと思われる。

▽資料・アメリカ公使の報告など
アメリカ公使ファルケンバーグは国務長官への報告
外国人に対する最初の襲撃により軍艦オネイダ乗組見習少年ウォルター・G・クラーク、小銃弾により胸を負傷せり。弾丸は貫通せざりしゆゑ速かに全快の見込みなり。(中略。衝突から二日後の二月六日夜、武装した日本人と小競り合いが起き、米陸戦隊員が一名、右手の指三本を失ったこと、イロクロス号乗組水兵が顎に軽傷を負ったが述べられる。しかし、これは日置隊との衝突とは別であると思われる。)
 以上は、上述フランス兵は除き傷害者すべてになるが、軽傷なり。(『神戸事件』頁123)

【補足】槍で突かれたフランス兵キャリエールの傷の程度には触れていないが、いざこざの後、家に逃げ込むだけでなく屋根に登ったりしており、またその後の外国側の詰問の事柄にもなっていないことから、重傷ではなかったと思える。

イギリス公使パークスよりスタンレー外相への報告、1868年2月13日付、および附属文書
なお、前述の一斉射撃の前後、外国人側に負傷者は出たが、死亡者はひとりも出ていない。(『遠い崖』6、頁196)

【補足】『神戸事件』頁114にも「英外相宛の公文(F.O.46.91,No.22,p.170)」として、同趣旨の記述がある。日付からして、同じ文書を指していると思われる。

パークスの覚書(在日公使が瀧善三郎の助命嘆願を協議したあと、公文書に同封)
この事件で一人も外国人の生命が失われなかった事実に考慮をはらうべきである。 (パークスは瀧を死刑にはすることに反対であったが、外交団の決定に従ったとし、その経緯をまとめた文書中のものである。『ある英国外交官の明治維新』頁116から117)
プロイセン公使ブラントの回顧録
追撃に際し、わがほうには一人の負傷者も出なかったし、敵方の負傷者も、確認できた範囲では足に銃傷を受けた老婆一人であった。第一回射撃の時でも、アメリカ軍艦の見習い水夫と、ほかに一人の外国人とが軽傷を負っただけであった。(『ドイツ公使の見た明治維新』頁134)
日本政府の委員が申し立てた論拠には、二通りあった。第一に彼らは、二月四日の襲撃の際、誰も殺された者はいなかったのであるから、なぜ犯人が死刑に処せられるのか日本国民は納得しないだろう。(同前、頁142)
オランダ公使ポルスブルックの報告
イギリス士官が二人泥沼に投げ出され、あるイギリス商人は店の戸の前に立っている所を銃の床尾で胸に一撃を受けたので、後ろに倒れてしまいました。
フランス公使の護衛をしている下士官は腰に槍の一撃を受け、もう一人のフランス下士官は手で槍の一撃を防いだのでした。アメリカ水兵が一人胸に銃弾を受け(以下略)(『ポルスブルック日本報告』頁216)
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外国人が殺されたという情報が伝わったのはなぜか

 ここに引用した被害者側である外国外交官が書いた資料を見ても、死者がいないことは明白である。しかし、神戸事件に関して、後世に書かれたものの中には外国人が殺傷されたとするものがある。
 それは次の二つの資料による引用が繰り返されたからだと思われる。
(一)『復古記』巻十八、明治元年正月十一日、〇争闘概略(第一冊、頁530―531)「幸ニシテ外国人死スルモノ二人ニ過キス」とある。『慶明雑録』を根拠とするこの文章は、末尾に「此所、蓋外国人ノ草スル所ニ係ル、且訛誤読ミ難キモノアリ(以下略)」と外国人が書いたものを根拠にした、と補足している。しかし、これを検証せずに参照した結果であると思われる。
(二)外国公使の回顧録としては比較的早く邦訳されたイギリス外交官サトウの回顧録"Diplomat in Japan"の頁347の'shot an American sailor'が「維新日本外交秘録」(維新史料編纂事務局訳編、同刊、1938年刊)では「一名の亜米利加人水兵を射殺した。」と訳された(頁452)。これを踏襲したのか、一般に広く流布した『一外交官の見た明治維新』でも同じように「射殺」としている(頁130)。
 'shot'には、「射殺」の意味もあるが、通常は「発射」や「射撃」ではないか。"A Diplomat in Japan"頁341では、13名のフランス兵が日本人8~9人を射殺したときは、'fired and killed'という表現をとっている。これだと確かに射殺である。
 ちなみに、萩原延壽は『遠い崖』6、で「一名のアメリカ兵を射撃した」としている(頁191)。

▼管見1
 外国文書の公開が進み、複数の回顧録を読む事ができる現在(2020年)から見ると、「射殺」とした資料は誤訳に思える。しかし、その背景には、神戸での衝突の時、外国人が殺傷された、ということが定説になっており、再検証がなされなかった可能性が窺える。
 『諸事風聞日記』(頁168)、日置帯刀が宿営した森村静称寺に伝わる文書など「英国人が殺害された」とする記述が多い。これらは、明治初期において「英人殺害」の事件として一般に記憶されていた可能性を示す。また、『夜明け前』第二部(頁42―43。初出は昭和4年から昭和10年)、『岡山県通史』下(頁1012。初版は昭和5年)でも、英国人が殺害されたとする。
 これらは復古記などの影響が大きいと思われるが、伝聞を修正する努力もされなかったと思われる。その後内戦となった戊辰戦争に比べて、注意をひかなかったのか、(仕方がないともいえる状況だったとはいえ)新政府の狼狽と無能が伺えるので触れたくなかったのか。
 神戸事件に関する取扱いや評価は、時代背景により変動した。その時の政権に都合の良いように解釈されたものでない正しい歴史を知るために、公文書の保存と一定年限を過ぎた文書の公開の重要性を感じる。
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▼管見2
 100人前後の居留民の保護が目的ならば、艦船に収容することも選択肢のひとつだと思われるが、そういった記述は資料で見ることはできなかった。これは、他国の領土であろうと一度条約を結んだ以上、自分たちの活動を保証すべきだという強い権利意識の表れであろう。
 武力を背景とした開国圧力と、この権利意識、さらに白人以外の人種に対する蔑視がセットになっているところが砲艦外交と呼ばれるものの本質である気がする。万国公法は、その道具のひとつでもあったと思う。
 なお、フランス兵キャリエール他の言動は外国公使が自国の高官へ報告した資料にも記載されており、外国側は把握していたはずである。しかし、交渉の過程ではそれが問題になることはなかった。サトウと片野十郎との非公式の会談でのやりとりは後で述べる。
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②日本側
 山崎喜兵衛は「此方ニハ下人壱人即死手負足軽也」とするが、その後の記録を見ると死者はいなかったようだ。『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』は次のように記す。

太田勇治足ノ指少々、足軽猟師草生村林蔵足シホヅト(ふくらはぎ)ヨリ壱玉打貫レ

 他に雑人が一人(下田村之民之介、出典は同前)捕虜となっており、また外国側の記録にある足に銃傷を受けた一人の老婆は地元の日本人であろう。
 太田勇治と林蔵は、筒井村の民家に立ち寄った(治療したと思われる)あと、集合予定地の深江村に参集しており(同前)、重傷ではなかったと思われる。