日置帯刀(忠尚)

 幼名・鋼之進、数馬、慶応元年正月元旦、帯刀と改める。さらに明治二年十一月二六日に英彦と改名。のち「忠」と名乗る。なお、姓である「日置」を『岡山県大百科』(下、頁五六三)『御津町史』(頁三八四)『平成新修旧華族家系大成』(下、頁三九三)では「ひき」、『明治維新人名辞典』(頁八六六)『現代華族譜要』(頁五四八)では「へき」とする。ここでは「ひき」で統一した。

 池田出雲政徳(岡山藩家老、天城池田家)の第二子として文政十二年(一八二八)二月八日に生まれる。
 嘉永七年(一八五四)正月五日、日置忠弼の養子となり、安政三年(一八五六)一万六千石の家督をついだ。
 家老職の常態として、岡山城下に屋敷があり、帯刀はそこに常駐したが、現岡山市北区御津金川に陣屋があった。

 幕末・維新での活動は、『明治維新人名辞典』(頁八六六)より引用する。
 資性勇敢で尊攘の志深く、主命でしばしば公卿・幕閣に鎖港について痛論した。元治元年入京し征長出師を停め寛宥の処置を請い、慶応三年六月広島・鳥取・徳島諸藩士と会談し、同年八月牧野権六郎と連名で幕府専制廃止・朝意尊重・皇国一体の強兵を閣老に建議した。(引用ここまで)
 慶応四年正月命を受けて、池田伊勢を総督とする西宮警衛に一隊を率いて参加。同月十一日神戸で配下の隊が外国人へ発砲したことがもとで外国側の兵員と衝突。
 神戸での衝突の直後に上京し、新政府および要職の者に報告(『伊達宗城在京日記』頁六七〇ほか)、その後岡山藩京都屋敷で謹慎した。

 明治二年三月二日執政職と会計の兼職を同時に免ぜられた。明治三年遊軍頭取となった。その後は雲外と号し、花鳥画に優れ、『岡山藩士族日置忠勤皇履歴』などいくつかの資料で宮内省技芸官であったことを自ら記している。大正七年九十歳にて卒し、神道を以て松琴寺に葬った。(『金川町史』頁六八―六九を中心に別記の資料を参考にまとめた。)

【参考文献】

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