伊藤俊介

 後年、伊藤博文。変名多し。長州出身。家貧しく、十二、三才で若党奉公をした。松下村塾で学び、その後長崎で洋式操練を学ぶ。桂小五郎(木戸孝允)に従って、攘夷運動に参加。文久二年品川の英国公使館焼き討ちに加わる。
 文久三年士分に列せられたのち、渡英。以後、開国・富国強兵論に転じる。第二次征長の際には、長崎との間を往来して、汽船・兵器の購入に尽力するとともに、薩長連合のために活動した。
 神戸事件当時、参与・外国事務掛として交渉に参加。その後、外国事務局判事、大阪府判事を経て、兵庫県知事にとなるが、封建制度廃止反対派に狙われて明治二年四月辞職。
 政府要職を歴任、初代総理大臣。立憲政友会総裁。初代韓国統監。公爵。ハルピン駅頭で、韓国人安重根に射殺された。享年六十九才。(『明治維新人名辞典』頁一〇一―一〇二)
 なお、明治元年二月三日から七月七日までのあいだ、五代才助(友厚)などとともに外国事務参与であった。(『激動の幕末と明治維新』頁二〇七)

【参考資料】

伊藤公直話リンクマーク(国立国会図書館デジタルコレクション)

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