澤井権次郎について

 岡山藩京都留守居・澤井宇兵衛の奉公書によると同人の息子である。澤井宇兵衛の奉公書では「忰同姓権次郎」として、その業績が幾度か記述される。
 安政四年に十六歳で初お目見を果たし、当初は「大筒」など軍事担当であった。文久三年八月十八日の政変の際、御所の門の警備に当たった。
 元治元年六月に「忰同姓権次郎義御周旋方助役被 仰付候」とあるので、この時から正式に外交方として活動を始めたと思われる。澤井宇兵衛の奉公書の慶応の部分を確認できなかったため(綴中で確認できず)詳細な活動記録は不明であるが、慶応三年十月十三日、大政奉還を前にした二条城の会議の参加者として、牧野権六郎と澤井権次郎の名前がある(『徳川慶喜公伝 四』、頁八九。『史料草案 巻十八』「十月十三日」)。
 また、王政復古政変の前の日、慶応三年十二月八日に、朝廷の招集に応じた岡山藩からの参加者として、「土倉修理介・沢井権次郎・矢吹卯之二」(『史料草案 巻十九』「十二月八日」)の名前があがっており、この時期、権次郎が外交方として活動していたことが分かる。
 澤井宇兵衛が京都で津田弘道らと新政府に対応し、権次郎が下野信太郎達と西宮および兵庫で伊達宗城率いる日本側交渉団と対応し、両方で事件解決のために奔走したと思われる。

 同人は明治三年二月まで公用方として勤めた。なお、明治二年に澤井浅美と改名した。(「浅美」の読みは「岡山大学附属図書館池田家文庫マイクロフィルム目録データーベース」を参考にした。)
 父の隠居や死によって家督を継ぐのではなく、明治初年まで両者とも活動した。