江戸時代寛政年間頃の栄町の様子は吉備温故の記述がよくわかる。(但し、左の絵図は文久(1861-1864)城下地図を参考に管理人が作成したので、時代的には異なる。)
古へ、當町に、千阿彌といふ時宗の寺「今光清/寺の事」 あるによって、町の名とせり。
初は此町は驛にて、傳馬町ともいふ。朝鮮征伐の時に、神君も此光清寺に御止宿ありしなり。 此町の石橋を千阿彌橋といふ。此橋より諸方への行程を定む。東二本松へ二里。/西矢坂へ一里。 驛ありしに依てなり。寛永の年中より、地子町役を除くと、御検地帳に見へたり。
火見櫓あり。いつ初りしと/いふ事不詳。此所にて昼夜十二時の鐘をつく、俗こゝを鐘つき堂といふ。又府中出火の時には、此鐘を数多くせわしくつく。これを早鐘と唱へて、府中一統の相図とせり。當町は此役を勤るゆへに、防火の役等を除かる。
本陣あり。これを阿彌/の替なり。
寛文八年光清寺を小原町へ移され、其跡を九月朔日町方の会所とし、又町家の子弟の手習所となすべき旨命ありて、町奉行加世八兵衛・石田鶴右衛門裁判して普請す。半田山より三間の松木三百本伐り出して賜りしといふ。
延宝四年に至り、町方の子弟入学を止られ、町方御会所に用ひられし、此会所の内に獄屋をも建られ、建てられし/年号不詳。 町手付ての罪人は此牢へ下る。
札場延宝七年国■(宝か?)初りし時より、札場となる/ともいひ、又其後建られし共云。不詳。 此の横町、南側は當町、北側は下の町に属す。
※■は、判読できず。宝の異体字「寶」と読めたが、「寳」と同じく当用漢字では「宝」になる。「延宝七年国宝初りし時」の意味が分からず、文字の判読ができないとした。ちなみに、延宝七年には岡山藩は初めて藩札を発行している。これとの関連を考えたが不明。
吉備温故、巻之十二、城府中、七、榮町。吉備群書集成(七)、p259-260 適宜改行などを挿入。小文字のところは割書)。縦書き画像(栄町)を見る
幕末に編纂された東備郡村誌では、栄町について「古名千阿弥町と云ふ。昔千阿弥と云ふ佛寺ありしを以て也。▲町会所。初は今の西中島日置氏蔵屋敷の地にありて、小原町光清寺を千阿弥と云て此地にあり。寛文の初、住僧罪あって獄に下り、此寺廃されて町方の書学所とせらる。是亦延宝三年廃されて町会所となる。」 と記述している(吉備群書集成(二)p274)。寛文の初めといえば池田光政の寺院淘汰の嵐が吹き荒れていたころである。何らかの関連を感じるが詳細は未調査。
町名についての補足:「寛永九年岡山城下見取図写」(岡山大学附属図書館 池田家文庫絵図公開データベースによる)(寛永九年=1632)では傳馬次町となっている。 寛文八年より前 同データベースの絵図は年代が明記していないものが多く(専門家は推測して判断できるのだろうが)また千阿弥丁と書かれたものもあり混乱するが、傳馬次町→千阿弥町→榮町になったのではないか、と推測している。今後の調査事項の一つである。
第2次世界大戦で戦災にあうまであった建物は天保6年(1835)に再建したもので、方7m、高さ2mの基壇上に高さ12mの三層楼をたて、二階に時鐘を、三層に警鐘(半鐘)を吊った。
鐘は京都三条釜座の名工和田信濃大掾国次の鋳造。しかし音色に問題があり、元禄10年(1697)に同人が再鋳した鐘を吊っていた。時鐘は昼夜12時を報じ、出火のときは半鐘を打ちならした。明治以後も旧慣通り時報と警報に使われ、岡山の名物的な存在であったが、昭和20年(1945)6月29日の空襲で全焼した。(以下略。ここまで岡山県大百科上p642 より引用 項目の著者/巌津政右衛門:同書に写真あり。)
現在、天保6年に建てられた鐘撞堂を5分の1サイズで復元した模型(左写真)と空襲で半分溶解した鐘が岡山市デジタルミュージアム(現 岡山市シティミュージアム)の常設展示室に展示されている(この部分「絵図で歩く岡山城下町」pp75-76)。
栄町(岡山市北区表町二丁目)の桃太郎ポケットにも模型(右写真)があり、鐘撞堂と関わりがある「乱投(らんどう)狐」の説明板もある。
桃太郎ポケットにある鐘撞堂の模型の前の説明板に書いてあった「乱投狐」の逸話が妙に気になった。最初見た時はなんかヘンな話だなあ、と思った程度だが、公民館の歴史の話の会に行ったとき歴史上の逸話としてそれを話す人がいて、考えてみた。
疑問や違和感がある点
看板の話は捨て鐘を三つ撞つことの由来を説明していると思われるが、捨て鐘を打つことは江戸時代各地域で行われていたとみられる(「大江戸調査網」-講談社メチエ-、栗原智久著、講談社、2007。p73-74。「江戸の時刻と時の鐘」-近世史研究叢書6 -、浦井祥子著、岩田書院、2002。p172-177。インターネットで検索しても記事はいくつも出てくる。なお、大阪では捨て鐘が一つであるとの記述が、「大江戸調査網」に出てくる)。
どうも奇妙な話である。説明板には出典などの記述はない。「岡山の民話」-岡山文庫39-(岡山民話の会編、日本文教出版)など岡山県の民話の本数冊を見たが、類似の話は出てこない。今後も気をつけて調べたいと思っている。
この鐘は京都三条、釜座(かまざ)の鋳物師藤原国次の作で国宝級だった 三個注文して一番遠おくまで音が届く鐘を鐘撞堂に残りの鐘を円山の曹源寺(そうげんじ)と小橋町の国清寺(こくせいじ)の鐘にした、それぞれ音色(ねいろ)が違っていたそうな 鐘撞堂の南側土手の石垣に乱投(らんどう)という狐(きつね)の大親分が棲(す)んでいた
この大親分義侠心(ぎきょうしん)に厚く弱きを助け強きを挫(くじ)き 空を飛んでは庶民に福を撒き散らしておったが唯一の楽しみが うたた寝だった 鐘撞堂は二時間おきに撞くものだから大親分もたまったものではない 岡山中の狐を集めて鐘が撞けぬよう石の雨(これで乱投と言われる)
堂守も困ってしまい油揚げと赤飯とをもって平身低頭して頼むとやってお許しが出て鐘を撞くことができるしまつ それからは鐘を撞く時には”撞きまあす”と声を掛けて静かに軽く三つ撞いてそれから本式に刻の数だけ力いっぱい撞くようになったそうな
吉備温故秘録 巻之十五 山川 八、津梁(吉備群書集成7 p.323)「石橋 栄町と紙屋町との間にあり。古へは千阿弥橋と云、今、町会所の處に千阿弥という時宗あり。依之名出るなり。」
男色関係にあった傍輩安宅彦一郎に「自分の家は兄弟が多いので自分は奉公稼ぎのために家を出て、弟に家を継がせようと思う」ということを話した。口止めしていたにもかかわらず、彦一郎がそのことを他人に漏らし、そのことが父の耳にも入ったことで立腹し、彦一郎を切った。そして備前を出奔し、手跡師範(寺子屋の先生?)をしながら長崎で暮らしていた。
旅の商人から、自分の代わりに父が捕らわれていることを聞いて、帰岡を決心。長崎から船で大阪へ行き、母に懇切な手紙を書いた上で、備前岡山にまかり帰った。そして、檀那寺である陰涼寺(左写真はその門)の僧に名乗り出た。住僧より届け出があり、藩による裁可を受けて延宝元年(1673)十一月二十七日に同寺で切腹した。定之進が書いた辞世は次の通りである。
即心是道、何衆生惑
おもひたつ心のほかに道もなし、いざかへりなむもとの都へ。春秋二十二 水野定之進
下僕七助は定之進の切腹のとき自分も死のうとしたが止められ、水を売って生活を立て、金を貯めて定之進の墓の横に塔を建てた。これが水塔(右写真)である。
七助がそこまでのことをした理由は単純な忠義ではないと思う。彼は理由を問われて次のようにいう。「十二の時に奉公に入ったとき頭にしらくぼ(しらくも)ができて髪を月代(さかやき)にするのを周囲の誰も手伝ってくれなかった。しかし、定之進がやってくれ、その後も常に同じようであった」。田舎から奉公に出た数え年十二の少年の気持ちがなんとなく想像できる。
また、その後尼となった元遊女が回向に訪れる。この尼は定之進が大阪から父を救うために(そして自分が切腹するために)岡山に帰るとき、床を共にした室津の遊女だった。そのとき彼は「自分にはいらない金だから」と多額の金を遊女に与えたようだ。水野定之進は魅力的な人物だったようだ。
(吉備温故 巻之五十六。吉備群書集成(九)p203-209、より要約)