岡山の往来・逸話2

往来の逸話

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白石橋

吉備温故秘録 巻之十五 山川 八、津梁

白石橋 久米村に在、笹ヶ瀬川に渡す。長十九間五尺横二間、川東は御野郡田中村なり。庭瀬海道なり。(吉備群書集成7 p.324)

私たちの故郷・御南(p44)

白石橋の移り替わり

 現在の白石橋は旧二号線が開通した昭和13年(1938)に現在位置に変更されたもので、それまでは現在の久米通学橋の付近に木橋があった。

 山陽新聞社編「岡山の街道」をみると、鴨方往来のなかに「道をまっすぐに西に進んで大野辻で国道と交錯、さらに田んぼ道を笹が瀬川堤まで続く。笹が瀬川には白石橋が架かっている。その100メートルほど南にもう一つの橋がある。昭和13年以前の白石橋だ。それ以前は旧道をつき抜けたあたり、その一つ前は渡し舟と、白石橋も上下した。・・」とある。「旧道をつき抜けたあたり」は現在のJR山陽線の鉄橋の下手付近と考えられる。この事実については、土地の言い伝えもある。

このようなことから、白石橋は最初はJR山陽線鉄橋の付近に架けられていたが、いまの久米通学橋の付近に架けかえられたように考えられる。(以下略)

 (適宜改行などを挿入)


久米(くめ)村

 岡山城下町の西方の笹ヶ瀬川右岸の平坦地にある。江戸時代は津高郡内で、枝村に北方がある。

中世の開墾地といわれる。東は笹ヶ瀬川を隔てて御野郡西長瀬村、南は今保村、西は境目川を隔てて備中都宇(つう)郡平野村、北は白石村と接している。村内を庭瀬往来が通り、笹ヶ瀬川にかかる白石橋の西詰に茶屋があった。
 現在今保にまたがる鉄工センターのあたりは「松田屋敷」といわれ、西備前の雄、金川の松田氏の一族が室町末期、国境防衛の屋敷を構えたところとされる。

『備陽記』によると、岡山万町口まで一里十五町、庭瀬口まで一里四町、村高五四二石九斗、田畑三六町二反七畝、家数三三軒、人口二六九人とある。
 元禄十五年(1702)境目川を挟んで久米・今保両村と備中側の延友村との間に境目論争が起こったが、五年後の宝永五年に和解して境目川に国境表示の印杭一三本が建てられた。その後享保年中に石杭に改められた(撮要録)。

 氏神の蟹八幡宮は、開村のころ村人が集まって境内を定めようとしていた時、大カニが現れて大きく方形に歩いて教えたことから社名がついたと伝えられている。社宝にカニが残したというツメがある。(一部略)

 明治二十二年(1889)白石・久米・花尻・今保の四ヵ村が合併して白石村となり、大字の久米に村役場が置かれた。昭和三十七年、岡山市に編入された。(以下略)

  「岡山市の地名」p412(読みやすくするため適宜改行などを挿入)


境目川と境界

境目川

 備前、備中の国境に当たる用排水路。全長2.6キロメートル、岡山市花尻から延友に至る直線状の川で、末流は足守川に注いでいる。

国境線は花尻から北へ向かって吉備中山の頂上にある吉備津彦命の御陵に通じる<観音道>に並行して走っている。

境目川は条里遺稿の基線でもあり、約500メートル西よりの下庄集落と清心学園のある丘陵を連ねる線までの平坦地には、条里地割りの遺稿が認められ、<一ノ坪、内ノ坪、中ノ坪>などの坪地名が字(あざ)地名として残されているが、条里地割りに乱れを生じている。

岡山県大百科 上、p1078 項目の著者/高田正規。読みやすくするため、改行などを適宜挿入。

 条里制に基づく直線の境界の一つであったようで、それに言及した論文なども見ることができる。
 古代の直線国境について、服部 昌之、歴史地理学紀要、歴史地理学研究会、第17号、1975、pp5-29。2016/01/08確認)。今後もう少し調べてみたい。

(境目川出口 堤の向こうは足守川である。

 

説明板の記事

境目川
 脇を流れる用水は、備前備中の国境とされる境目川です。 この川をめぐって、江戸時代に境界論争が行われてきました。

 元禄15年(1702)、備前の久米村・今保村と備中の延友村との間でおこった境界争いは、用水もからみ5年にわたり争われ、宝永年(1708)に大内田村の大庄屋孫四郎の仲裁で和談が成立しました。

その際、三ヶ村の役人が立会のうえ、境目川にそって13ヶ所、計26本の杭が打たれ国境の標示としました。

 この石柱は、備前備中一対のうち久米村分の一つ。当時の人々の辛苦を見守ってきた国境石ですが、一時期行方がわからなくなっていました。地元の探索と現持ち主(岡山市関八田光弘氏)のご厚意により、元の場所にもどされました。

 絵図は「撮要録巻の十二」からの写し(一部改変)。平成14年3月吉日

御南学区水辺の集い協議会
岡山市教育委員会

参 考

撮要録巻之十二

 津高郡久米今保御国境杭宝永五年建立杭数都合十三本也 此御国境之事元禄十五年ヨリ延友与久米今保両村及争論 宝永五年に至て和談 因之始て印杭を建 委細左に記

   備中国賀夜郡延友村備前国津高郡今保
    久米両村国境相極為取替証文之事

此度大内田村大庄屋孫四郎取口に愛:アイ延友村与今保久米両村との備中備前国境之義 双方致和談出入相済 何も立合場所見分仕候処 潮川引船渡今保村乗場之所より延友村田地一ヶ所延友村堤之東へ越有之所まて境は前々より慥にて論無之所にゆへ共 此度境杭見合せ五ヶ所打置申候

近年之論所は川中通に古土手有之所より往還道石橋之所までに有之 向後互に申分不仕様に境杭打所見合八ヶ所打置申候 此内四ヶ所は土手之岸下 四ヶ所は土手之岸上所に境杭打申候事 右之通事済 境杭一ヶ所毎ニ双方より一本宛二本打之 惣杭打所十三ヶ所両方之杭数都て二十六本打之申

 則絵図に委細書記境杭打所に延友村庄屋年寄今保久米村両村大庄屋並名主五人組頭口に愛:アイ人孫四郎共致印形為後証互に絵図証文為取替申所依て如件 宝永五年子四月六日(以下略)

このあとに津高郡久米村名主 野殿村 弥一郎など関係者の署名が続き、宛先はこの時期郡奉行であった泉文之丞(※1)である。

 さらにこれに関連した記録が続き、このとき備中延友村側が六寸角の檜の杭、備前久米・今保村側が三寸角の栗の杭を建てたことや、協議の過程で、杉山善左衛門(※2)と延友領主の臣らしい村田半助も文書のやりとりをしている。延友村は庭瀬藩と浅尾藩の領分(岡山市の地名p846-847)なので、村田半助がどちらの藩士かはもう少し調べないと分からない。

また、 善左衛門から「備前内の往還の国境碑は全部石なので、今後は石にしなさい」という指示(アドバイス?)もあったようだ。

 ※1:元禄16.10-宝永6.11まで郡奉行:岡山大学附属図書館諸職交代デ-タ-ベ-スによる。

 ※2:岡山藩地方巧者:「杉山善左衛門略歴」、大森英子著、湘南国際女子短期大学紀要2、pp232-198 (ママ)による。福山検地に際し新たに雇用された藩士で、境界争いなどを中心に担当していたようだ。

嬉野の番号石 

国境石あるいは境界の杭  今まで、西国街道や長崎街道で多くの国境石を見たが、「從是△××國」(「從」は「従」の場合もある。△は東西南北。××は國名)という記述のものが中心だった(国境一覧参照)。

 久米の場合は国境碑というより、村境の杭であると考えている。国境でもあるだが、それぞれの領主権力が直接折衝するのではなく、形式的には村同士の内済の形をとっている。経費も村方が多く(あるいは全部)を負担したのではないだろうか(享保五年の時に石杭に変更したときは『立被下』とあるが、他のときは記述がない)。これが国境争いの解決法として一般的だったか、他の例を知らないので分からない。

 船穂町誌pp95-96「九 片島村堤外芝地/両船尾村青指原 御墨筋堤杭間数附御裁許絵図」(小文字のところは割書)に境界が混乱したのを整理するため、杭を十六本打って、それを絵図にした記録があった。倉敷代官所へ報告しているようだが、これも内済のようである。

前例踏襲の時代であり、備前・備中では、この形が常套的な解決策となっていた可能性もある。

 長崎街道で筑前・筑後・肥前の境である三国峠に「三国境石」があり、その延長線上に郡名を書いた「傍示石」が並べられている(※3)。また、嬉野温泉では写真のように数字を刻んだ石を見た。これは佐賀本藩と蓮池支藩との境界石として設置されたものだ という。約2000個というから、かなりの区間だ(※4)。これらは久米や船穂の例より、藩が表に出た形になっているようにみえるが実際は史料を見なければ分からない。

※3 帰岡の日だったのと街道から離れているように感じたので管理人は見ていない。情報は福岡県文化財調査報告書 第184集 長崎街道、pp158-159、福岡県教育委員会発行、2003、などによる。
※4 長崎街道:肥前佐賀路 (九州文化図録撰書2)、p104、図書出版のぶ工房 編・発行 2006年(2版)

 「從」と「従」:ネットで久米の国境碑について、「從」ではなく「従」という文字を使っているので明治以降に立て替えられた可能性がある、と書いているものを見たが、 「従」の字体だけでは判断できないのではないか。

 「従」は「從」の略字で、基本的には「従」が新しく、「從」が元の文字だとは言えるが、明治以前でも「従」の字は使われていた可能性はまったくないのだろうか。

 江戸時代に立てられた広島藩領の領界石や、豊前国と筑前国の国境石(領界石)には「従」の字が刻まれている(国境一覧参照)。

山口の道標で「従」の字を見たことがある。くずし字では、「従」のように書くこともあるので、その流れだろうか、と考えてもみたがはっきりしたことは分からない。また明治時代に立てられたものでも「從」 の字を使っているものもあった。

追記1:習字をしている人のアドバイスで「書源」(藤原鶴来編、二玄社、1970)を調べると、「従」の字体が掲載されていた。 「伊闕仏龕之碑(いけつぶつがんのひ)」という磨崖碑に書かれているものだそうだ。 「チョ遂良(ちょ すいりょう、チョは衣偏に者)」という唐代の書家(政治家でもある)の筆になるものであるらしい。

 詳細は不明だが、字体としては古くからあるということのようだ。道標の新旧を確認するには、他の要素も勘案する必要がある、という事だと思う。

書きかけ項目です。今後追加修正の可能性があります。


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