【建部陣屋構築の経緯】 (建部町史 通史編 p209)
「池田光政は寛永九年(1632)の岡山移封にあたり、まず他領との接点となる新領地の「道筋請取口」を家老や侍大将に受け持たせて警備を固めさせている。美作国津山森藩と接する福渡道筋には家老池田(森寺)長政(知行地一万石)が命じられ、知行地も建部を中心に配置された。警備の拠点として、中田村に陣屋(後に御茶屋と呼称される)が構えられ、やがてその周辺に建部新町が造営されていった。」
同p212及び「図20 建部陣屋及び建部新町の古絵図」によると、建部陣屋は慶安3(1650)年造営されている。大阪夏の陣から35年しかたっていない。
なお、建部池田氏が森寺とも呼ばれる理由は以下の通り(同p210-211)。
「建部陣屋に入った池田長政は、備中松山城主(現・高梁市)池田長吉の三男で、森寺家に養子として入るが、池田輝政の許可のもとに森寺姓を名乗らず池田姓を名乗り、以後代々の当主は池田を名乗っている。」