瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌

【解読文頁三 補注】

[一]シホヅト:『岡山県方言集』(桂又三郎編、国書刊行会、昭和五十一年)によると 『ふくらはぎ』の岡山方言。

[二]「御始末御書上」:この文書は伊達宗城や三条公など政府関係者に提出されている。当初の岡山藩の報告として、『復古記』第二十三巻、明治元年正月十九日「忠尚申状」(内外書籍版、頁六五三)、『大日本外交文書』第一巻第一冊一一四(日本国際協会版、頁二七五―二七六)に掲載されている。
 『復古記』第二十三巻(頁六五三)リンクマーク(国立国会図書館デジタルコレクション)

[三]「先手行列之中間江」:『復古記』では、「先手行列之中へ」。

[四]「先手之銃隊共右之挙動ヲ見受、直ニ操出(中略)彼ヨリモ浜手へ及発砲候ニ付」:本頁には「繰り出す」の意で「操出」と書いたと思われるものが複数ある。これ自体は定着した誤用であるが(『音訓引き古文書字典』、林英夫監修、柏書房、二〇一〇。頁一八一)、「直ニ操出し」については別途検討が必要である。
 『復古記』『大日本外交文書』([二]と同頁)および『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』(池田家文庫S6―128―(2))では、先手銃隊は右の挙動を見て、直ちに「搏出し」である。また、海岸側にいる彼(外国人)が「浜手に」向けて発砲するのは矛盾する。こちらも、前記比較書では外国側は「浜手より発砲」となっている。いずれも、『復古記』以下の記述が正しいと思われる。

[五]「御名 家来」:『復古記』では、「備前少将家来 日置帯刀」と報告者の名前が記載されている。

[六]以下の文書(「公使館を銃撃したかとの調査とその回答」)は、『復古記』第二十七巻、明治元年二月朔日「○日置忠尚、再ヒ神戸争闘ノ事ヲ上陳ス。○正月二十九日達書」(内外書籍版、頁七七九)、『大日本外交文書』第一巻第一冊一二四(日本国際協会版、頁二九七)に掲載されている。
 『復古記』第二十三巻(頁七七八)リンクマーク(国立国会図書館デジタルコレクション)確認:二〇一九年七月二七日。

[人物]
太田勇治:日置家家臣。石高などは不明。

[事物と地名]
草生村:日置氏所領。金川の北に隣接。  〇筒井村:六甲山地南麓山寄りの緩傾斜地に立地。明和六年以降幕府領。