瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌

【解読文頁五 補注】

[一]以下の文は、『大日本外交文書』一二七および『復古記』第二十七巻、明治元年二月二日と同じである。両書では、この文が当文書頁四の「去月十一日」で始まる文書よりも先に記されている。当文書前頁補注[三]参照。

[二]「相抱」:『復古記』の同文に「(拘歟)」と補記がある。こちらの方が意味が通る。

[三]「外国人ノ」:『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』では、「与」(と)である。こちらの方が意味が通る。

[人物]
波多野弥左衛門:岡山藩士。文久二年十一月―慶応二年十月まで大目付。慶応二年十二月―明治元年(慶応四年)二月、旗奉行。三百石。

[事物と地名]
宇内之公法:神戸事件関係の文書では「宇内の公法を以て、処断する」という表現が使われる。宇内とは、「天下」「世界」のことである。(「宇」は天空が地上を覆うの意。『国語大辞典』)。宇内之公法は、万国公法のことであるとされる。中国で漢訳され日本に継承された国際法の訳称。
 幕末から明治初期のわが国にあっては、「万国公法」は諸国間の関係を規律する実定的な法規というよりは、五箇条の御誓文が「天地の公道」としてこれに言及したことが示すように、自然法的道徳規範ないしは人類の正義と公正の諸原則として受け取られていたことに注意する必要があろう。(『国際関係法辞典 第二版』一部表現を改めた。)。