[一]「御知行五百石被下被召出候事」:この文では、責任を負って罪科に処せられるものを「五百石」で召し出すとしている。しかし、『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』(池田家文庫S6―128―(2))ほかでは「一 五百石已上、倍之知行被下候事 但 右已下は五百石被下候事」とあり、岡山藩庁が、罪科人の石高が不明(つまり罪科人が誰だか不明)の状態で指示書を作成している可能性を示唆する。
責任を負って切腹することになる瀧善三郎はこの時五人扶持(『先祖書 瀧猛水』池田家文庫 資料番号D3―1597および『御奉公之品書上 瀧成太郎』池田家文庫 資料番号D3―1591)である。
当文書の記述は、最初から罪を背負う者の石高が五〇〇石以下であることが判明している表現となっている。
[二]「繁太郎」:瀧善三郎の長男は「成太郎」。また、当文書末尾の瀧善三郎遺書写にも同人の名がある。読みは「シゲタロウ」とされる。
[三]「御名御判」:『瀧善三郎神戸一件日置氏記録ノ写 遺書并辞世ノ歌写』では、これに続いて「(日置帯刀)」とある。
[人物]
●津田孫兵衛:日置家家老。五〇〇石。 ●板津武司:日置家家臣。日置家家老・板津喜左衛門の子息。
[事物と地名]
〇知行と給人:俸禄として土地(知行地)を支給される武士が給人である。時代によって変遷したが、武士の格として残った。家臣団のなかでは中上級である。
瀧善三郎はこの時、五人扶持の側役であり、当主である兄源六郎方に同居していた。