[一]「二月六日」:岡山藩から瀧善三郎の名前が提出されたのは、二月七日朝である。(「同七日 〇今暁備前家来名元附出ス」『伊達宗城在京日記』日本史籍協会版、頁七〇五)
『大日本外交文書』第一巻、第一冊一四一(頁三四一)も、二月七日と記す。
また、『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書並辞世之歌』では、日置家より瀧善三郎へ切腹を申し渡した文書の日付けは二月七日であり、その日に兵庫へ移送された。同人が家族宛てに認めた遺書の日付は二月八日。
伊達宗城在京日記(国立国会図書館デジタルコレクション)確認:二〇一九年七月二七日。
[人物]
●下野信太郞:岡山藩士、藩の外交方。 ●原田権左衛門:岡山藩士、鉄砲頭、二百七十石。
[事物と地名]
〇英国公使館:英国は、慶応三年一二月七日、神戸開港と同時に神戸に領事館を開設した。旧幕府海軍操練所の建物を利用したもの。(『国際都市神戸の系譜』頁七二―七三) 〇旅籠町:西国街道沿いの小広町、神明町には旅籠が多く、両町とも旅籠町と呼ばれた。(『兵庫県の地名Ⅰ』、頁一一一。兵庫・神戸の地名は同書による)。 〇桝屋長兵衛方:小広町にあった脇本陣。(『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』七七) 〇神戸東門:兵庫開港に先立って、慶応三年に外国人居留地を開くとき密貿易を防ぐために設けた番所のうちのひとつ。(『居留地西関門跡の碑文』)。生田神社の参道入口にあった関門だと推定。