(一)東久世の不在:東久世は、兵庫に正月一三日から二四日まで居たが、その後は京都に戻った。その後、二月八日に京都を出て大阪に滞在。瀧善三郎の割腹を兵庫からの通信で知っている。(『東久世通禧日記』上、頁五二二)
(二)刑法局の未着について:伊達宗城は、刑法事務輔議定総督の細川右京大夫(護久)が、東海道追討を命じられて刑法係から外れたためであろうか、と推測している。(『伊達宗城公御日記』頁四〇)
(三)薩長の隊長:正月十一日より薩摩と長州に兵庫の管理が命ぜられている(『復古記』巻十八、頁五一九)
[人物]
●東久世殿:東久世通禧。尊皇攘夷急進派の公家。慶応四年正月軍事参謀となり、外国事務掛を兼帯。神戸事件に際し、当初、参与外国事務取調掛として、外国公使団と会談し、大政復古を報じる布告書を渡すなど交渉に当たっている。
[事物と地名]
〇刑法局:刑法事務局。慶応四年二月三日以降設置され同年閏四月、八官二局制の実施により廃止された明治政府三職制の部局。