【瀧善三郎の助命について】

1.どのような形で発案されたか

 資料の内容を時系列で追うと
(日にち不明)
①五代才助がラウダ―に相談
二月七日
①ラウダ―が来て、伊達と協議
二月九日
①外国掛の会議:五代が瀧の助命について彼の考えを述べ、伊達が保留にし、政府が決めたことを横から口を出すのは良くないと言う
②五代と伊藤が外国公使団に申し入れる
③外国公使団が協議、拒否

となる。

(1)調べた資料

  1. 御留日記
  2. 伊達宗城公御日記
  3. 兵庫一件始末書上
  4. 英国外交官が見た明治維新
  5. 遠い崖6
  6. ドイツ公使の見た明治維新

 なお「瀧善三郎自裁之記」『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』も調べたが、これらには瀧の助命に関する記事がないだけでなく、永福寺に待機中に伊藤・五代が遅れてきたことの記述もない。

(2)調査結果

p>瀧の助命に関する記述があるのは、伊達宗城の二種の記録である。
五代才助が
 
1.御留日記/伊達宗城(外国事務総督)
二月七日
〇五代寺島参候、備士善三郎助命之策、英コンシュル代ラウダへ五代話置候処、態々亦為話合参候事実意不堪感服候[頁45]
二月九日
〇五代、伊藤より助命応接取懸候故、瀧之処置両人寺へ参候迄待候様、寺島、中島、両書一封来開ク[頁45]
〇五代、伊藤参、百法及弁論候得共、何分助命之義、各国公使へ会し百法弁論、公使中二字間密談、終に不承知のよし[頁45]
2.伊達宗城公御日記/伊達宗城(外国事務総督)
二月七日
英領事代理ラウダーが来て、備前藩士瀧の助命のことを公使へ願ったが、ヨーロッパの威厳が損なわれるから死刑は避けられないと言う。
ラウダーの考えでは、それよりも懐柔策が先決ではないか。備前藩主から、これまで藩士の教育が行き届いていなかったので、今度の暴行事件が起きました。その点は重々お詫びします。しかし、相手も存命であるので瀧の命だけは助けるわけには参りますまいかと懇願させておいて、明日の外交交渉に臨まれてはいかがか、と言う。
(宗城)私も瀧の命を救いたいのだが、攘夷気分の強い備前藩の内情もあることだし、今日私ども一存でいろいろ取り計らった後で、備前藩からお詫びなどは致しません。死刑に値する罪を犯したのなら、あれこれ言うことはありませんなど、と事後に主張されても、かえって迷惑、また東久世の吟味不足にもなるゆえ、残念だが一士を誅殺して、万士に警戒の範を示すしかないのではないか。しかし、実際に相手が死んでいないのなら、それを理由に談判をいたそう。なおその点ラウダーが言うようにやってみようと言ったところ、
(ラウダー)至極ごもっとも、ではその方針で明日交渉なさるように。西洋でもフランスの博覧会場でロシア皇帝に発砲した犯人が死罪を免れた最近の事例などをご指摘されたらいいでしょう、と考えを密示してくれた。
[口語訳は、近藤俊文、水野浩一編の創泉堂出版版による。頁29-30]
二月九日[外国掛内の協議]
【読み下し文】五代より瀧善三郎一命丈助度(たすけたき)事、同人考を以て話候処、しかと答えを決める事は致さず、政府にて決め候儀を他より彼是口付候事は、相成らぬ事、西洋各国通例と申し候、然し乍(なが)ら、断然相成らずと立腹も致さず、尚心懸けも候はば、外公使へも申し述べ候て宜敷(よろしき)との事故後刻会議を約し置候也
[創泉堂出版版の解読文(頁38)をもとに、サイト管理人が読み下し、( )の読みを付した。]
【創泉堂出版版の口語文】五代から瀧善三郎の一命だけは助けたいと、五代の考えを話したが、はっきりと決答はせず、政府で決めたことを他からあれこれ口出しすることはいけないことで、西洋各国でも通例であると諭した。しかし、五代はいや断然そうではないと、立腹もしなかった。なお彼の心意気もあり、他の公使へも話をしてもよいとのことなので、後刻会議を開くことを約束した。(頁39―40)
【サイト管理人の口語文】五代から瀧善三郎の命だけは助けたい事について、彼の考えを話したが、明確に答えを決めることはせず、政府が決めたことを他から彼是口を出すことはしてはいけない、西洋各国では常識である、と言った。しかし、絶対に駄目だと怒りもしなかった。なお、考えることもあるので、外国公使へも言ってよい、という事なので後で会議をすることとなった。
[原文も含めて、この文章の意味が分かりにくかった。瀧善三郎の助命について伊達がどのように思っていたかを知るために、別途口語文を付してみた。失礼はお詫びする。
自分で口語に訳してみたが、伊達が瀧の助命を肯定的なのか、否定的なのかがはっきりしない。「立腹しなかった」のが五代ではなく伊達だと考えてみても、同様である。]
二月九日[外国公使との交渉後]
五代寺島来、助命之儀百法及談判候処、何分不可救ニ立至候由残念千万也、初発之応接ナラとふか助ケラレタラン可惜可譴可憫事
3.兵庫一件始末書上/澤井権次郎(岡山藩京都留守居)
二月九日
[伊達宗城から澤井権次郎へ]
朝廷ヲ初於此方精々尽力、何卒死罪だけ者(は)是非宥さんとて、昨日も種々談判致候得共
4.英国外交官の見た幕末維新/A.B.ミットフォード(英公使館二等書記官)
二月九日
実際の話は、三月二日に、外務担当の五代(友厚)と伊藤(原注=後の伊藤公爵)が、瀧善三郎を助命してもらう余地はないか、と相談に来たのである。その後で開かれた公使一同の会議で、ペークス公使とオランダのフォン・ブルック総領事は、議論を戦わせ、実際に罪人に有利になるような投票をしたのである。しかし、二人は少数派であって、多数決で天皇(みかど)の命令は履行されるべきであると決定した。これについて当時、私は賢明な措置だと思っていたし、現在もその考えは変わらない。寛大な処置を嘆願する日本側の態度は熱意に欠けていた。天皇の閣僚として錚々(そうそう)たる者も含めて、政府高官としばしば話をしたが、彼らは外国代表団のとった措置を支持していた。彼らの見解も私と同様で、慈悲深い処置はかえって卑怯だと誤解を受けるということであった。(頁124)
 
5.遠い崖6/アーネスト・M.サトウ(英公使館日本語書記官)
二月九日
三月二日(陰暦二月九日)午後、外国人への発砲を部下に命じたかどで切腹を宣言されている日置帯刀の家来滝善三郎の助命嘆願に、五代(才助)と伊藤(俊輔)がやって来た。諸外国の代表のあいだで、約三時間におよぶ長い討論があった。
すくなくともパークスは刑の執行延期を主張したが、大多数の代表は刑の執行を支持した。午後八時半、五代と伊藤が部屋に呼びもどされ、法を執行する以外に方法はないと簡潔に告げられた。(頁289)
 
6.ドイツ公使の見た明治維新/マックス・フォン・ブラント(ドイツ公使)
二月九日
指定された処刑日の午後、二人の政府の官吏が外国代表のもとを訪れ、犯人の助命ができないかと質問した。この思いがけない申し出に、外国代表たちはほとんど五時間にも及ぶ論議を行った。(中略)結局、多数派の見解が勝利を収め、処刑-犯人は切腹(ハラキリ)の判決を受けていた-を行うよう日本側に通知がなされた。
[フォン・ブラントは、日本側(伊藤俊介と五代友厚)の主張を次のように記す。(頁142)]
日本政府の委員が申し立てた論拠には、二通りあった。第一に彼らは、二月四日の襲撃の際、誰も殺された者はいなかったのであるから、なぜ犯人が死刑に処せられるのか日本国民は納得しないだろうと説明し、第二に、外国人の生命に何ら別条もなかったのに、日本人の命が奪われたとなると、日本国民は誇りを傷つけられたと感じるであろうと説明した。この論拠に重みをつけるための証拠として、彼らはパリにおいてロシア皇帝陛下を狙撃した人物の件を引き合いに出し、ヨーロッパにあっては、殺人が未遂に終わった場合、犯人は助命されると申し立てた。
(このあと、伊藤俊介達は、公使達の情に訴えた。)
日本側委員はさらに、犯人は死罪に値し、判決はすでに下ったことを語り、それでも犯人の生命を救う手立てはないものかどうか、われらは外国代表団の慈悲にすがるものであると言明した。(頁141―142)
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【ロシア皇帝暗殺未遂事件】
 神戸事件の前年の1867年、フランスを訪れていたロシア皇帝アレクサンドル二世がロンシャン競馬場での閲兵式からの帰途、狙撃されたが無事だった。犯人はポーランド人アントン・ベレゾフスキーで、裁判にかけられ、終身禁固刑に処された。「アレクサンドル暗殺 上」、頁349-350。同書では『ベレゾフスキ』

【参考文献】

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