それまで軽い処置を得ようと、京詰めの者を中心に努力していた岡山藩は、「兎角罪の寄処衆人の御取極不被成候而ハ不相叶義」(「板津武司、津田孫兵衛差出しの書簡」『御津町史』、頁1149―1151)と心を決め、通達履行へ動き始める。
これを節目に、「発砲号令の者」の処断へと一気に向かっていく。
二月三日、前日発せられた発砲号令の者への割腹申し付けと日置帯刀の謹慎を命ずる二件の通達を受諾する上申が岡山藩から出された。
▽資料・大日本外交文書日置帯刀、謹慎受諾 『大日本外交文書』第一巻第一冊、頁三一五―三一六
一三一 二月三日岡山藩家老代池田靫負ヨリノ上申書
神戸事件ニ因リ岡山藩日置帯刀処罰御請ノ件
備前少将家来
日置帯刀
神戸通行之節、従卒共外国人ニ対シ暴発、不容易(容易ならざる)所業ニ付、被所罪科(罪科に処せられ)候、全同人下知不行届之事被思召候間、謹慎為致置(致させ置)候様被仰出候事
右御達之趣奉畏候、此段御請奉申上候以上
備前少将家老代
池田靫負
二月三日
発砲号令者の割腹受諾 『大日本外交文書』第一巻第一冊、頁三一六―三一七
一三二 二月三日 二月三日岡山藩家老代池田靫負ヨリノ上申書
神戸事件発砲号令者処罰御請ノ事
神戸通行之砌、行列へ障候由ニテ外国人へ兵刃ヲ加へ剰(あまつさ)へ逃去候亜仏人、並公使へ及発炮、理非之応対ニモ不及、如何ニモ妄動之所為不行届之至ニ候
節即、今更始御一新国事多難之折柄、深被為悩宸襟、就中外国御交際之儀ハ、御国体ニ相抱(拘ヵ)候重大之事件ニ付、宇内之公法ニ基、不損皇威(皇威を損なわず)、至当之筋御履行可被遊思召之処(御履行遊ばれされるべき思し召しのところ)、御時節柄ヲモ不奉顧(顧み奉らず)返テ御恥辱ヲ醸候儀、重畳(この上なく)不容易(容易ならざる)罪科ニ付、発砲号令之者、各国見證ヲ受、可致割腹旨(割腹致すべき旨)被仰付候事 但罪科人体明日ヨリ五ヶ日ヲ限リ、兵庫表へ護送致、外国事務掛リ之者江(へ)可申出候
右之通昨二日御達之趣奉畏候、此段御請奉申上候以上
備前少将家老代
池田靫負
二月三日
意味を取りやすいように( )を補記した。
1.この時岡山藩が受諾を拒否することができたか。
まず、一月二十日の廟堂の会議で、岡山藩が勅命に従わなかったら征伐も考える、という意見が出ていたようだ(『復古記』)。また、一月十八日に伊達宗城に後藤象二郎が「公使達が言う通り処置しなければ戦争の他になく、岡山藩が命令に従わなければ征伐の他にない。(口語訳はサイト管理人)」と言っている(『御手留日記』頁三九)。
岡山藩は、これまで(これ以降も)勤皇として、周囲の藩に圧力をかけている。あまつさえ、備中松山藩の飛び地である玉島では、松山藩の一隊の指揮官熊田恰を切腹に追い込んだあとである。薩長土肥の強力な武力に対抗できるとは思えないが、それだけでなく筋論としてもここで抵抗することはできなかっただろうと思う。
もっとも新政府が、岡山藩に征伐戦を実行すれば、かなり困難な状況になったのではないか。
鳥羽伏見の戦いは、幕府軍が虚を突かれて敗北したが、東日本にはまだ強大な武力が温存されていた。
仮に岡山藩が新政府に対し、捨て身で戦端を開いていたら鎮圧するのに数カ月はかかっていたのではないか。その場合西国街道は、通行が困難になる。
新政府は態度が明確でない藩に「朝廷に逆らうのか」と圧力をかけ(中国地方では、岡山藩はその先兵を務めていた)、恭順を示した藩からの資金や兵力の上納によって武力を強化して行ったことで戊辰戦争に勝利したことは、『復古記』などを拾い読みしても分かる。
この時、一翼を担った藩を武力で制圧しようとすると、その流れを乱すことになる。
東征どころか、彼らの権力の拠り所である京都守衛にも混乱を来す可能性もあったのではないか。※。
もっとも、どんな時代でも単純に敵は討伐すればよい(すべき)と主張する者はいるようだが。
※第二次長州征伐の時、長州が強かったのは、武器や戦術の優劣、戦意の有無に加えて国を守る戦いであったこともあると思う。一般にはすぐに敗北したと捉えられている小倉藩は、慶応二年八月一日の小倉城自焼後、慶応三年一月二十二日に停戦するまで五カ月の間戦い抜いた。(資料によっては「慶応二年十二月二十八日和睦」とするものもあるが、当サイトでは止戦協定が結ばれた日を停戦の日とした。)
将軍家茂の死により征長軍が解散された八月十三日以降(実際はそれ以前から)は、まったく孤軍として、南部の田川郡香春を拠点にゲリラ戦を展開した。2.宇内の公法という言葉の使われ方
衝突が起きたのが、一月十一日、新政府が「公法による処断」を決定し、岡山藩京都屋敷に通達したのが、一月二十日である。
同二十二日、岡山藩が「公法による処断」を受諾する上申書を提出した。そして、二月三日、「宇内の公法」によって「切腹を申し付ける」という。
それぞれの節目で「宇内の公法」が処罰の根拠として語られるが、そのどの部分に違反したかが語られた気配はまったくない。「宇内の公法」という言葉は、行政や法律用語というより魔法の呪文のように用いられた。
困難な局面が生じた時、それまでの論理で丁寧に解きほぐすのではなく、外来の概念を曖昧に示すキーワードを用いる癖は今も変わらない気がする。
▲たたむ
「瀧善三郎自裁之記」(篠岡八郎原著)では、二月の段階で、日置隊の幹部及び瀧善三郎が謹慎を命ぜられたとする。側役・五人扶持の瀧を除き、他は知行百石前後の日置隊の幹部(同時に日置家幹部)である。(※1)。
さらに、瀧の兄源六郎(横目格・百石)、兄の同輩浜田弥左衛門(横目格・八十石)、及び日置の同輩と思われる五人の者が善三郎の説得役に選ばれた(※2)。
しかし、説得係の出番はなかった。善三郎は兄源六郎が「皇国の大事であり、各国の見証を受けて切腹するようにとの朝廷の命令である。異存があるならば、私が請ける。」という言葉の前に動揺を見せずに、「朝廷の重大なご指示、また主公(帯刀)の命令であればすぐにお請けする。」と答えた。同書では、それが三日暮れだとする。
「瀧善三郎自裁之記」は日置帯刀を恩愛の深い主君、瀧善三郎を忠烈な武士と描こうとする傾向が強いので他の資料と整合性がとれない時がある。取り扱いに注意が必要であるが、瀧の近くにいた笹岡しか書きえない記述があり、また時系列から考えて自然に感じられる場合もある。若干ずれがあるかもしれないが類似の状況があった可能性もある。そういったものに関しては所々で触れたい。
「瀧善三郎自裁之記」(『御津町史』頁三九〇―三九一)
是より先き物頭狩野伝左衛門従卒二十人を引率し、又板津顧は私に出頭して共に森村の本陣に来着せり、
而して丹羽勘右衛門、御牧勘兵衛、角田与左衛門、津田孫兵衛、吉田渡、瀧善三郎等謹慎を命ぜらる。
更に浜田弥左衛門、瀧源六郎、予、角田勝吉、小神三郎、山崎喜兵衛、宮崎慎之輔をして瀧善三郎に発砲号令の責を引き割腹せしむる様説諭方を托せらる。依て一同本営(※一)に集り説諭の方法を協議す、
予は善三郎と同宿(※二)なるに付衆言に従い一人先づ帰宿して善三郎の側に在り、
少時にして源六郎来宿し弟善三郎に対い厳然として曰く、此度の出来事皇国の大事なり、発砲号令の者各国見証を得割腹せしむべき旨朝旨なり依て其許に割腹を命ぜらる、宜しく畏るべきなり、若し異存あらば拙者代りて御請申すべし、如何にと、
善三郎顔色自若言下に答えて曰く、重き朝旨とあり且主公の命なれば直に御請可仕と、事立ち所に決す時に三日暮少し前の刻なり。(中略)
浜田は直に本営に至り善三郎奉畏旨を言上す、主公(※三)深く御感賞あり、暗涙を催されたる様に拝せりと承る。(以下略)
※一、本営:日置隊は一月二十日までに、打出陣屋から森村へ移動させられている。同村静称寺の伝承によれば日置帯刀は同寺に、他の家臣は村内に分散して宿営していた。本営は静称寺を指すと思われる。
※二、静称寺の伝承及び『明治維新神戸事件』(頁156)によれば瀧善三郎は同村「志井六兵衛」方に瀧善三郎が宿泊していた。「志井六兵衛」は同村で宿屋を営んでいたという。
※三、二月三日では日付があわない。この日、帯刀は、京都藩邸におり、森村に帰着するのは二月五日である。また、日置隊として出撃していた家老・津田孫兵衛もこの時はまだ京都に居り、森村帰着は四日である。帯刀帰着後に報告したと思われる。
『史料草案』巻二十二
同日御達
備前家老日置帯刀、去月十一日神戸通行之砌(みぎり)、外国公使ニ対シ発砲致候ニ付、朝廷に於て公法を以て御処置、号令致し候士官死罪、帯刀謹慎、仰付られ候間、心得(の)為申達候事
右山陽道諸藩へ相触べき旨、仰出され候事
読み下し、読みを付すなど一部編集した。( )の補足はサイト管理者による。同文が、『大日本外交文書』第一巻第一冊、一三三にある。
「板津武司、津田孫兵衛差出しの書簡」『御津町史』、頁一一四九―一一五一
扨証人御指出人別の義彼是御趣意も被為在畏、
三日昼孫兵衛義京都出立、四日早朝森村え御着登、一統にも申聞候上、
先般の始末取調証人の義ハ、申上候迄ニも無御座重事、御取計口に寄候而ハ御一家中の指合も如何与不容易御心配、
私共ニおいても心底御察可仕候、兎角罪の寄処衆人の指処ニ御取極不被成候而ハ不相叶義は勿論の事ニ御座候ニ付、
種々評議の上御帰鞍奉待伺上、終ニ瀧善三郎義証人ニ御差出割腹被仰付候段決定ニ相成、
則一昨七日九ツ時頃夫々の御手都合御折合相調、兵庫表に御差出しニ相成申候事ニ御座候、
扨善三郎江被仰付候処、潔御請申出、以後殊之外落付宜、御上を奉始、一統大ニ安堵仕候義御座候
意味が取りがたいところがあるが、次に要旨を記す。
津田孫兵衛が三日昼、京都を立ち、四日早朝森村に到着した。
神戸での一件の処置については、言うまでもなく重要なことで処置を間違うとお家に差しさわりもある。
とにかく、罪の根拠として衆人が指処(指示するところ=納得するところヵ)で取り決めなければいけないことはもちろんなので、いろいろ評議の上、(主公=帯刀)御帰りを待って伺った上、終(つい)に、瀧善三郎を証人として差し出し、割腹仰せつけることになった。
すなわち、一作日七日九ツ頃、関係者の都合を調整し、兵庫表に差し出すことになった。
瀧善三郎に仰せつけられた処、潔くお請けすると申し出た。以後は事のほか落ち着いて、主公(帯刀)を始め、皆が大いに安堵した。(文責:サイト管理者)
本文書について:本書は瀧善三郎切腹前に、岡山にいた日置家幹部(家老・西川安太郎、同・板津喜左衛門)に宛てて、西宮に出張していた板津喜左衛門の息子・板津武司、家老・津田孫兵衛が出した書状。記載日は、二月八日であるが、文書中に「一昨七日」とあり、これが正しければ手紙が書かれたのは九日である。記述されているのは瀧善三郎への切腹申し渡しまでであり、八日にかかれたと判断してまちがいないと思われる。あるいは、八日深夜から九日早暁に書かれたか。二月九日に帰岡する横目役・角田与左衛門が持ち帰り、十一日に到着した。
岡山藩京都屋敷で謹慎していた日置帯刀へ、森村の宿陣へのに戻るよう沙汰があった。四日京都を出立、五日に森村に帰着(『御奉公書上 日置英彦』八)。以後は同村の浄称寺に宿泊し、同寺を本営としていたと推定している(前記、浄称寺の伝承)
『兵庫一件始末書上』では、澤井権次郎達の西宮での相談のなかにいたとされるが(『兵庫一件始末書上』)、奉公書『御奉公書上 日置英彦』にはその記述はない。
距離的には、西宮で相談して森村に帰ることは可能であり、帯刀が西宮を通過して、事件についての相談の関係者のなかに入らないとは思えないので、書かなかったのだと思われる。
仮に帯刀が参加したとして、この場で瀧善三郎に切腹を命じることが方向づけられたのではないか、と推定している。
また、岡久渭城は『明治維新神戸事件』で、五日の打ち合わせで、下記「波多野弥左衛門文書」が日置へ渡されたとする(頁127)。その可能性は高いと思える。
外交方・澤井権次郎(京都留守居・沢井宇兵衛の子息)が、四日に兵庫出張を命ぜられ、五日に京都を出立、西宮でいずれも岡山藩の出先の重役である澤井、雀部次郎兵衛(出張大目付)、本郷佐野介(判形請持)(※3)、日置帯刀と「本人」引き渡しについて相談した(※4)。澤井達はこれ以降二月十一日まで、岡山藩を代表して折衝に当たる。(『兵庫一件始末書上』池田家文庫)
前記のように日置帯刀の奉公書にこの日の記述に上記相談のことは記されていない。また、下記「波多野弥左衛門文書」がここで日置に渡された可能性がある。
『兵庫一件始末書上』池田家文庫 池田家文庫資料番号S6―128―(1)
私義、今般帯刀殿同勢神戸表ニ而(て)外国人与(と)行縺之義ニ付、
於朝廷(朝廷に於いて)御引取御所置被遊(遊ばされ)、則発砲号令之者割腹被仰付(仰せつけられ)候ニ付、
二月四日、兵庫表出張被仰付(仰せつけられ)、同五日京都出立同夜西宮駅江着仕、
同所出張大目付雀部次郎兵衛、判形請持本郷佐之介並帯刀殿江、
本人引渡等始末諸事打合仕申候
資料・兵庫一件始末書上[二]に続く。
この日以前に日置家家老・板津喜左衛門の息子(嫡子か)武司が一月二十三日に西宮に参着、代理として行動したと思われる(「津田孫兵衛書簡」『御津町史』頁1147―1148)。さらに、この翌日(二月六日)岡山藩外交方・下野信太郎が兵庫に参着して、澤井と行動を共にする。
岡山藩大目付・波多野弥左衛門(※5)が「発砲号令之者」への「切腹命令と新知の下賜」の達書を持参した(※6)。内容は切腹命令と知行下賜であるが、命令というより切腹を依頼し慰撫している。それを踏まえて「切腹命令書」とせず、二つの内容を含めてお波多野弥左衛門文書」とする。
この時、日置隊は森村に駐屯していた。日置帯刀はこの日京都を発って、西宮で打ち合わせに参加した可能性がある。当サイトでは岡久のいうこの打ち合わせにこの文書が持参されたと考える。もう一つの可能性は日置が宿営した、森村浄称寺であるが、二月七日瀧が兵庫に護送される前に、「重き被仰出之趣」(知行の下賜)のお請けのためとして、波多野の宿舎へ使者を派遣していることなどから考えて、その可能性は低い。
『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』池田家文庫 資料番号 S6―128―(2)
二月五日大御目付波多野弥左衛門持参
先般於神戸外国人と引(行ヵ)縺一件、於朝廷御引取、宇内之公法を以御処置と相成、終ニ罪科ニ被処候儀ニ候得共、
全く皇国之大事を体任し、可奉安宸襟との重き勅命も有之候事故、第一は朝廷之御為、次ハ備前之為、帯刀之為を思ひ、
聊も忿怨を不(挟ヵ)、従容就死之程頼思ひ候、
跡式之儀ハ深き趣令(意ヵ)も有之、格別ニ取立遣し候間、是又懸念致間敷、実ニ馬前之討死ニも相勝り、
忠臣と可申、一入憐ミ思ひ候
一 五百石已上、倍之知行被下候事
但 右已下は五百石被下候事
一 忰ニて別勤之者ハ親へ右之通被下候事
一 親忰とも無之者ニ候ハハ本人内存之者承置候事
一 男子両人有之候ハハ倅召出、次男日置家ニて
名跡之事
( )はサイト管理者補記。読みやすいように読点を施した。
【意訳】
二月五日 大目付波多野弥左衛門持参
先般神戸に於いて、外国人と騒動になった一件、朝廷が引き受けられ、宇内之公法を以て御処置になり、終に罪科に処せられることになった。しかし、全く皇国の大事を果たし、天皇の御心を安んじ奉るべしとの重い勅命もある。よって、第一は朝廷のため、次は備前のため、帯刀のためを思い、従容として死ぬことを頼む。
跡式(相続)については、深く趣の意もあり、格別に取り立てる。
忠臣と申すべく一入(ひとしお)憐みに思う。
一 五百石以上の者には倍の知行を下される。
但し、それ以下は五百石を下される。
一 家中の者の嫡子で、親と別に奉公している者は、親に五百石下される。
一 親も嫡子もいない者は、本人の内存(心内)を聞いておくこと。
一 男子が二人居る場合、長男は本藩へ召し出し、次男は日置家で名跡を継ぐこと。
岡山藩、西宮警衛を免じたので、その兵力を上京させるよう新政府からの命令を受ける。
二月五日 太政官代於軍務官ヨリ御達
備前少将
西ノ宮御警衛被免候上ハ人数引纒速ニ可差登候(『史料草案』巻二十二、池田家文庫 資料番号 A7―41)
補注
※1.謹慎者
銃卒三小隊のそれぞれの隊長(物頭/二百二十石・丹羽勘右衛門、同/百石・御牧勘兵衛、同/百十石・角田与左衛門)、士頭(家老/五百石・津田孫兵衛)、吉田渡(取次出役/七十石)、第三砲長(側役/五人扶持・瀧善三郎)等が謹慎と記されている(「瀧善三郎自裁之記」「慶応四年侍帳」。いずれも『御津町史』頁388、1129―1135。吉田渡の知行身分は同人奉公書『先祖書 吉田渡』(池田家文庫 D3-2835)によった)。
銃隊の小隊長は知行百石以上の物頭ほか、日置家では幹部と言ってよい者であり、側役/五人扶持の瀧善三郎は特異である。何らかの理由で瀧の責任が問われていたか、後から作成された「瀧善三郎自裁之記」の操作なのかは判断できない。
※2.説得役の者
善三郎の兄瀧源六郎(同・百石)、同じ横目格の浜田弥左衛門(八十石)、篠岡八郎(表小姓・銀三枚三人扶持)、角田勝吉(同・同)、小神三郎(中小姓・七俵二人扶持)、山崎喜兵衛(中小姓・五俵二人扶持)、宮崎慎之輔(中小姓・十三俵二人扶持)が瀧善三郎(側役・五人扶持)の説得を命ぜられる。
先の二人を除けば、瀧とほぼ同じ階層の者達である。
※4.西宮での相談
西宮警衛隊の本拠は打出陣屋であり、出張総督・池田伊勢は西宮北の六湛寺に逗留していた。呼び出しに即応したり、責任を負う者の氏名を提出したりしているので、同所かその近辺に岡山藩の者が逗留していたと思われる。
※5.波多野弥左衛門
「諸職交代データベースシステム」では、文久二年十一月~慶応二年十月まで大目付。慶応二年十二月~明治元年(慶応四年)二月、旗奉行。明治元年四月~六月、児小性頭兼役一番大砲隊頭。この時は、旗奉行の期間になるが、『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』など神戸事件関係の資料では、大目付となっているので、それを用いた。
【参考資料】
※6.波多野弥左衛門文書(仮称)について
この通達は、『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』では、「二月五日持参」であり、また、知行下賜の条件に「五百石以上」「五百石以下」という記述があり、対象者が特定されていない。
『岡山藩士日置帯刀従/者於神戸外国人に対(ここまで割書き) 発砲の始末全』など、廃藩置県直後の岡山県がまとめた資料でも同様である(『吉備群書集成』第五輯、頁121)。
しかし、『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』では、五百石以下の瀧善三郎に特定された形に書きかえられ、七日の日付のある日置家の通達の前に配され、一連の文書の形式をとっており、同じ日に通達したと読める。
これらを踏まえ、また日置帯刀の奉公書『御奉公書上 日置英彦』八(池田家文庫 資料番号D3―27)を参照して、五日に波多野が持参した書類に基づき、七日に岡山藩からと、日置家からの「切腹命令」と「知行下賜」を瀧善三郎に通達した形にしたと判断した。実際にその手順で行われた可能性もあるが、参照している文書のほとんどが後になって編纂され、その過程で加筆訂正された部分もあり、確認は難しい。
なお、「波多野弥左衛門文書」の内容について、波多野が持参したものは、『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』収録の文章であったと判断できる。帯刀が五日に受け取ったものを、日置家が瀧善三郎に通達する際、あるいは記録をまとめる際に、実際に切腹した瀧善三郎にあわせて『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』の形式に修正したと思われる。
「瀧善三郎自裁之記」では、「六日(中略)正午早追にて大目付波多野弥左衛門本営に着し」とある(『御津町史』頁391)。そして、日置帯刀が瀧善三郎に切腹命令を出した日も同じ六日であるとし、その時波多野も同席し、本藩からの切腹命令、新知下賜について口頭で述べたとしている。当サイトでは岡久と同じ、五日の打ち合わせで波多野から日置に渡されたと推定しており、「瀧善三郎自裁之記」の記述は採らなかった。
なお、波多野弥左衛門文書には発行者の記載がない。神戸で衝突が起こってから、新政府と応接は京都詰めの者が、かなり踏み込んでやりとりをしているが、知行を下賜することは藩主など岡山藩庁の上層部以外ではできないだろう。
波多野弥左衛門の奉公書でこの件に関する記述を探したが見当たらなかった(『』では隠密に来たという文章があったことを示唆している)。その前後に記録では、慶応三年十二月五日から「御城御番、火事番など度々相勤申候」とあり、この前後同人が京都詰めなどになった気配もないので、この時、岡山藩庁の使いとして来たと推測した。