十日は雨が降った(※1)。澤井は、朝のうち永福寺へ行き、銀二十枚をお礼として渡し(取り計い)、外国掛(※2)の岩下佐次右衛門(方平)、五代才助、寺島陶蔵、伊藤俊介、中島作太郎にもお礼として鶏二羽(一双)ずつ渡した。
午後に伊達宗城の宿へ行き、兵庫に待機しておくべきかどうか尋ねたところ、もう特に用事もないので、勝手次第と言われた。帰路、五代、伊藤を回って、暮れた後宿に帰った。
十一日、下野信太郎と一緒に兵庫を出立、西宮に立ち寄って、日置帯刀と大目付に報告した。その夜は山崎路(※3)を上り、十二日午後、京都に帰着した。(『兵庫一件始末書上』。参照は(3)に記載した。)
岡山藩は二月二日に新政府から、西宮警衛を免じ久留米藩へ引く次ぐよう指示され、また該当兵力を上京させるよう二月五日に下達されていた。そして、瀧の切腹の翌日十日に打出陣屋を引き渡した。なお、報告は十二日付(『史料草案』巻二十二)である。
一部は国許へ帰り、一部は京都へ向かった。
太政官代は二月六日に岡山藩に対し、東征軍の先鋒を申し付け、国力相応の兵力を出すように下達した。岡山藩は、澤井宇兵衛(権次郎)名で銃隊三百五十人以下、計五百七十人からなる兵力を東征軍に従軍させると二月八日に届け出ている。
それに併せて、西宮警衛隊を京都に差し登らすことを届け出る。十一日に耕戦隊(※4)と池田伊勢の先遣隊が京都に到着(『史料草案』巻二十二及び『御奉公之品書上 池田貞彦』三)。出発の日は明記されていないが、十日ではないか。
(『史料草案』巻二十二)
『兵庫一件始末書上』
一 同十日朝永福寺江御銀弐拾枚御会釈取斗、外国
懸り岩下佐次右衛門、五代才助、寺嶋陶蔵江為会釈鶏一双
遣ス、伊藤俊介、中島作太郎江も同断、昼後宇和島侯
御本陣江罷出留去相伺候処、最早別段御用も不被為
在候間、勝手次第引取不苦候段申聞候、帰路五代、伊藤
其外江も廻勤暮後下宿ニ引取申候
一 同十一日信太郎同道兵庫表出立西宮江立寄り、帯
刀殿並大御目付等江始末相噺置、同夜同駅出立山崎
路通行仕
一 同十二日昼後帰京仕申候
『史料草案』巻二十二
(二月十一日)
十一日、遊奇隊並びに池田伊勢先勢京都着。
(二月十二日)
一 御届書
西宮ノ警衛場去ル十日有馬中務太輔様御家来へ
引渡備前守人数不残引揚申候此段御届申上候以上
池田備前守留守居
二月十二日澤井宇兵衛
瀧の切腹により、最初に外国側が要求した次の二点の要求の一つが果たされた。
残りの要求、「天皇陛下の政府から書面での詫び入れ」については、先述のように何度か訂正があったあと、二月十一日二時に最終的な書面が配布された。
▽資料・大日本外交文書『大日本外交文書』第一巻、第一冊、一四四 明治元年二月九日、頁三四四
二月九日 (外国事務惣督)伊達宗城ヨリ各国公使宛
神戸事件関係者処罰其他ノ事
手紙を以て啓上致し候、然らば今般備前家来、故(ゆえ)無く外国公使等並びに其の人民を襲い候段、朝廷に於いて新政の砌(みぎり)、旁(かたがた)不行き届きの義、拙者より御詫び申入れるべし、且(か)つ、此(これ)以後双方ヨリ信義を守り相交わり候に於いては、右等妄動の所為之無きよう、列藩へ急度(きっと)申し渡し置き候に付き、以来此等の事総じて朝廷にて受合い申すべし、此度(このたび)の義、別紙のごとく日置帯刀へ謹慎申付け、瀧善三郎割腹申付け候段、各国公使へ申入れるべく旨、勅令を蒙(こうむ)り候 以上
二月九日
六ヶ国公使宇和島少将
姓名閣下
但、各通
なお、『復古記』では文頭に「〇外国事務総督伊達宗城、書ヲ英米等六国公使ニ贈リ、神戸ノ暴挙ヲ謝シ、日置帯刀、瀧正信ノ処決ヲ報ス、是日、正信兵庫永福寺ニ自尽ス、内外官吏ニ涖(のぞ)ム」と記している。
( )内に読みを補足するなど、一部表現を改めた。
「神戸事件の決着がつかないかぎり、神戸から大坂への帰還を拒否しつづけてきた外交団は滝善三郎の処刑後三日の二月十二日(陽暦三月五日)、大坂にもどった。」(『白い崖』6、頁296)
英国領事館に行き、イギリス公使団、オランダ公使達と一緒にイギリス軍艦オーシャンに乗り、十一時、神戸出発。延期していたオーシャンの見学をする。「機関大砲等みる、台(砲台)等新発明百五十封度(ポンド)アリ、千馬力也、堅牢絶言語候」(『伊達宗城公御日記』頁55)と、絶賛している。
上陸後、大坂のイギリス領事館までパークスと同行。その後帰館。
十三日、下坂してきた東久世と大坂にもどったフランス公使ロッシュと会談。
瀧の切腹の日、大坂まで下ってきていた東久世は兵庫へ向け出発しようとしたが、五代才助から連絡が入り、延引している(『東久世通禧日記』上、頁522)。
日置家家老・西川安太郎、同・板津喜左衛門名で日置家知行所の村役人への通達が出された。その前に「御名 御判」とあるのは、日置帯刀と思われる。
神戸村で異変が起きたこと、このことを朝廷が処理されたこと、内憂外患の折柄やむを得ない処置である、と経緯を説明して、このことで日置家中で騒ぎになったらその者の家はもちろん、日置家、岡山藩、なにより朝廷の為にもならず、皇国の安危にも係わることになる。殿様はこの事を心配されている。また、瀧を「莫大の忠臣」と言うなどしているが、結論としては「右御意味合一同厚勘弁聊沸騰排(批ヵ)判致間敷、御百姓共江も寄々申諭、鎮静方無油断相心得候様可申聞旨被仰出候事(以下略)」とある通り、この度のことを批判したり、騒いだりするな、と言っている。
さらに日置家の知行所の村役人(庄屋など)に通達して、百姓や小者(略部分に記述)まで、そのことを通達せよ、と言っている。(『御津町史』頁1153)
騒ぎになることで帯刀への批判が強まることを防ぐ意図があったと推察する。
瀧の切腹について、京都留守居・澤井宇兵衛(権次郎)の名で、太政官代へ報告文を提出した。(『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』資料番号 S6-128-(2))
瀧善三郎の遺骸は、翌朝森村へ帰った。兄源六郎が火葬にして、遺骨の一部を国元に持ち帰った(※5)。『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』では、「国許に連れ帰った」と記す。
また、日置家の祖先日置豊後守の菩提寺である京都大光院(※6)へ納めるよう指示された。小神三郎が遣わされ、滞りなく埋葬された。
また、三條字岡山の森共同墓地に瀧善三郎の墓があったという(『本山村史』頁610)
(※7)。恐らく、京都と岡山に持っていった遺骨の残りを森村の有志が埋葬したものと思われる。
『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』 池田家文庫S6―113
一 同所ヨリ死骸駕籠へ入、森村へ取帰り、
瀧源六郎考ニテ火葬いたし、同人付添御国許へ連帰ル
一 御趣意被為在京都大光院へ骨納候様被仰出、
右御用ニ付小間(神ヵ)三郎京都へ被遣、
大光院様御墓所脇へ納メ、無滞相仕廻罷帰ル
但 京都御泊りへ罷帰候事
(大光院様トアルハ日置家ノ祖先日置豊後守殿ノ事ナリ、
大光院ハ日置家代々ノ菩提所ニテ妙心寺ノ寺中ナリ)
京都大光院の収骨碑
『大日本外交文書』第一巻、第一冊、明治元年二月十四日(頁348)『遠い崖』6、頁299。『伊達宗城公御日記』頁63。
会議の内容は資料によって若干異なるが省略。
岡山藩が瀧善三郎の長男成太郞を知行500石で召出す。この時点までは日置の家臣としている(『瀧成太郞奉公書』、池田家文庫、資料番号D3-1591)。そして、日置家の家禄を長女いわに養子猛水を迎えて、存続させる(『瀧猛水奉公書』、池田家文庫、資料番号D3-1591)。
〇堺事件勃発。堺に入港したフランス軍艦の水兵が上陸し、周辺住民に乱暴を働いたため、警備の土佐藩兵がフランス水平十一名を殺傷した。新政府はフランス側の要求を認め、同二十三日、土佐藩関係者十一名が自刃した。(『幕末維新史年表』頁200)
〇東征軍、京都を出発。
神戸での衝突に関連して、岡山藩主が謹慎の伺いを出しており、藩内静粛にあるべきとの惣触、および藩主の御機嫌伺いに関する通達
一、先達て帯刀御触達有之候、日置帯刀神戸通行之節外国人と引縺之儀
朝廷へ御引取御裁許被仰出候、依之今般御謹慎御伺被成置候間、諸事物静可致候、(以下略)
(『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』資料番号 S6-128-(2))。
岡山藩主から神戸事件に対する謹慎伺が出される。瀧に「武道のお取り扱い」を以て切腹を仰せつけられたことを感謝するとしている。また、澤井宇兵衛の名で瀧の家族などが記してあり、「御内々御沙汰在なされ候に付、書上げ申候」とある。(同前)
太政官代より、謹慎に及ばずという通達があった。このことは二十七日に飛脚により国元に知らされた。(同前)
日置帯刀、蟄居を解除、国元への帰参が許される。(『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』資料番号 S6-128-(2))。
ただし、実際には既に岡山に帰国していた。蟄居解除の通知が来たとき、すでに帰っていることを岩倉具視に相談し、構わないとの内意を得ている(同前)。
池田茂政の致仕と政詮の藩主就任が認められた。『復古記』第二冊、巻四十八、頁876。
藩主交代について、兄徳川慶喜への追討に賛同できず、勤皇との板挟みになったためとする解説がほとんどである。茂政が神戸事件についてどう思っていたか、伺い知れない。
補注
※1.十日は雨
『御留日記』頁46
※2.外国掛
この時、岩下・五代・寺島・伊藤は外国事務掛であるが、中島は外交関係の役職はない。彼が外国官権判事になるのは明治元年五月である。(『大日本外交文書』第二冊、「附録二 明治元年帝国外交関係官略歴」。頁九―五四。)
参照した『兵庫一件始末書上』のまま、「外国掛」とした。
※3.山崎路
旧山陽道のうち、京都の東寺四ツ塚(あるいは伏見)から始まり、西宮までの区間を特に山崎通と呼ぶ。
【参考文献】
歴史の道調査報告書集成九 近畿地方の歴史の道<九> 兵庫一、原本編集 兵庫教育委員会、海路出版、2006
※4.耕戦隊
慶応二年から編成された農民兵。参考文献である『史料草案』では、遊奇隊とするが、この名称になるのはこの年慶応四年(明治元年)四月。この後、奥羽戦争まで遠征した。明治二年名称が廃止され、新たな銃隊に組み替えられた(『岡山藩』頁260―264)。
※5.遺骨の一部を国元に持ち帰った
岡山市中区平井の東山霊園に、瀧家の墓所がある。そこに瀧善三郎の墓碑があり、持ち帰られた遺骨が埋葬されていると思われる。
瀧善三郎の墓碑
※6.京都大光院
京都市右京区にかってあった寺院。京都妙心寺の近くである。日置氏の菩提寺のひとつで岡山藩家老日置氏三代日置忠俊が祀られている。瀧善三郎の切腹後、遺骨の一部が収められた。
現在も「収骨碑」および日置忠俊の墓碑がある。
大光院について
※7.森共同墓地の瀧善三郎墓
日置隊は一月二十日に打出村から森村に移転し、その後宿営した。同村藤本重郎右衛門方には善三郎を兵庫まで送った輿が残っていたという(『本山村史』頁610)。
森村の共同墓地について
【参考資料】
本山村誌、本山村誌編纂委員会、昭和二八年、頁610