Ⅳ1.1)③で既述したように、外国公使団の抗議文は、一月十一日(February 4)のものと、同十二日(February 5)の二種類が作成され、掲示・配布された。(※1.英文抗議文)
長州藩の掲示があるところでは必ず貼ったというサトウの記事に従えば、少なくとも兵庫の東西の惣門、札場の辻など、通常通達などを掲示する場所にはかなり貼っていたと思われる。
それに加えてサトウは「第一枚目の布告文を備前の官用宿舎(本
陣
)の戸口に貼りつけ、長州藩が四日夜宿泊した家には四通りにわたる全部の布告文を張り付けた。」とする。((本陣)及びそのふりがなは原訳文のまま。)(『一外交官の見た明治維新』下、頁132―133)
『神戸と居留地』では、岡山藩の浜本陣、網屋新九郎方に掲示したとする(頁129)。
抗議文は掲示されるだけでなく、大坂などに送られた。この時、長州藩も住民へ「住民は関係ないので、平静を保つように」との布告を貼ったことが、ドイツ公使の回顧録などに記してある(『ドイツ公使が見た明治維新』頁136)。
また、捕虜(※2)に通告文を持たせて返したことがサトウの回顧録(『一外交官の見た明治維新』下、132)に記されている。これを一月十三日、日置帯刀が新政府に持参した(『伊達宗城在京日記』頁666)。一月十一日作成のもののようである。
十一日の抗議文の内容は
「日置隊士が、外国人を理由なく槍で突き、鉄砲で襲った理由を説明するように求め、各国公使が満足できるよう説明できなければ、外国に対し戦いを仕掛けると判断する。そして、外国が行動に出れば、ただ備前藩だけに限らず、日本国中すべての大災難になる。」
という恫喝であった。
十二日のものの内容は、
一、各藩の蒸気船の拿捕
二、各国が行う処置は、町方・村方の者には関係ないこと
三、神戸を封鎖するが、武器を携えていない者は通行できる
の三点である。
『大日本外交文書』第一巻第一冊
神戸ニ於テ岡山藩家老日置帯刀(忠尚)ノ行列外国人ヲ襲ヒタル理由
即時ニ釈明スヘキノ件
本日松平備前守家臣池田伊勢、日置帯刀両人神戸町通行之節、右両人供之内無故槍戟砲器を以て外国人え襲候ハ、
何故ニ候哉、早速申訳ニ罷出可申候、若各国公使とも満足する様申訳不相立ニ於ては、弥外国へ対し干戈ヲ動し度(ママ)御見定め猶外国よりして処置ニ可及候テは、只備前藩ニ不限日本国中之大災難ニ可相成事
正月十一日 右各国公使より被申出候事。
文頭の原注は略した。読みやすくするために、変体仮名はひらがなに変更し、適宜改行と読点を付した。
【意訳】
八十七 一月十一日(陽暦二月四日) 兵庫、神戸及びその他に於いて各国公使が掲示した注意書
神戸に於いて岡山藩家老日置帯刀の行列が外国人を襲った理由を即時に釈明すべき件
本日、松平備前守の家臣、池田伊勢および日置帯刀の両人が神戸を通行した時、彼らの供の者から理由なく槍で突き、鉄砲で外国人を襲ったのは何故か。急いで説明に来るべきである。もし、各国公使が満足できるよう説明できなければ、外国に対し戦いを仕掛けると判断する。そして、外国が行動に出れば、ただ備前藩だけに限らず、日本国中すべての大災難になる。
正月十一日 各国公使より申し出された事。
『大日本外交文書』第一巻第一冊
八十八 一月十二日(二月五日) 兵庫、神戸及其他ニ於テ各国公使ノ掲示シタル 注意書
一 神戸事件ニ因リ各国軍艦兵庫港内ノ日本船差押ノ件
(一)昨日、松平備前守人数乱暴イタシ候ニ付、各国軍艦ヨリシテ兵庫港碇泊之日本人所持之蒸気船差押候、右ハ昨日、各国公使ヨリ被申出候、備前ニ不限、総而日本国中諸藩江関係有之ニ依而也。
二 神戸事件ニ因リ各国ノ行フ処置ハ町方村方ノ者ニハ関係ナキヲ以テ平静ヲ求ムルノ件
(二)昨日、松平備前守人数乱暴いたし候ニ付、各国より夫々処置ニ及ひ候得とも、決而町方村方之者共ニハ関係無之ニ付、夫々安穏ニ致渡世、騒敷儀一切無之様可致事
三 神戸事件ニ因リ各国ハ警備ヲ行フモ武器ヲ帯フル者ノ外ハ通行可能ノ事
(三)昨日松平備前守家臣乱暴ニ付、各国江夫々警衛致居候へとも、兵器を携ヘ候もの、並ニ帯刀人之外ハ無滞通行可致事
【意訳】
八十八 一月十二日(二月五日) 兵庫、神戸及びその他に各国公使が掲示した注意書
一 神戸事件により各国軍艦が兵庫港内の日本船を差し押さえた件
(一)昨日、松平備前守の一隊が乱暴をしたので、各国軍艦が兵庫港碇泊している日本人所有の蒸気船を差し押さえた。
右のことは昨日各国公使から通告があった。備前に限らず、日本国中諸藩に関係があることであるからである。
二 神戸事件により各国が行う処置は町方村方の者には関係がないので、平成でありたいこと。
(二)昨日、松平備前守の一隊が乱暴したので、各国がそれぞれ対応したけれども、決して町方村方の者どもには、関係ないのでそれぞれ安穏に日々を送り、騒がしくすることはないこと。
三 神戸事件により各国は警備を行うが武器を帯びた者の他は通行できること。
(三)昨日松平備前守家臣が乱暴したので、各国それぞれ警衛するが、兵器を携えた者、並びに帯刀の者のほかは滞りなく通行すること。
布告文は「故無く槍で突き、銃撃したのはなぜか」と詰問する。衝突のきっかけであるキャリエールら自陣営の兵士の行動について、まったく触れていない。
キャリエールが隊列を横断したことを咎めた日本兵が槍で攻撃したことはファルケンバーグの自国国務長官への報告に記載されているので(『神戸事件』頁119―123)、その日付二月七日(和暦:一月十四日)以前にはキャリエールら自陣営の兵士の行動を知っていたと思われる。またマルタンがキャリエールの横断と自分たちが銃を持ち出したことをフランス公使ロッシュへ報告した文書の日付は二月六日(和暦:一月十三日)である。
しかし、布告文はもちろんのこと、この後の交渉でもそのことに触れることはない。
『御奉公書上 日置英彦』八、池田家文庫D3―27
同月十二日、打出村御陣屋江着仕、昨日神戸通行之節、外国人共与不慮行縺之義出来仕候ニ付、始末為言上之同所直ニ出立、京都江早追ニ而罷越候事
【意訳】
同月十二日、打出村御陣屋へ到着しました。昨日神戸を通行した際、外国人共と不慮の諍いが起きましたので、いきさつを言上するために同所をすぐに出発し、京都に急ぎの駕籠で参上しました。
解読は、『日置英彦(七~九)』(備作史料研究会編)を参考にして、サイト管理人が行い、句読点などを施した。日置英彦は日置忠尚(帯刀)の維新後の名乗り。さらに日置忠とも名乗った。
補注
※1.英文抗議文
下記英文のNo.1が十一日(February 4)、No.2~4が十二日(February 5)である。
記録の冒頭に、Notices posted by the foreign representatives,in Japanese,throughont Hiogo and Kobe and also street to Osaka,and in defeerent parts of the country.(外国の代表者が日本語で、兵庫県と神戸市全体に掲示し、また大阪および国のさまざまな地域に送信した通知)と、掲示し、関係各所に送付したことが記されている。(和訳はサイト管理人)
※2.捕虜
日置家臣・寺田竹三郎の雑人、下田村の民之介が銃撃戦で捕虜になった。釈放されるとき、外国側の詰問書を渡された。「尋問書ハ洋紙ニテ至テ小サキモノナリ」とある。(『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』(池田家文庫S6―113)
『復古記』第十八巻 明治元年正月十一日には、「日置帯刀小者、夷人へ召捕、色々及詰問居候ヲ放逐セシメ候節、相渡候書面。」とある。
※3.岡山藩京都屋敷
岡山藩の京都藩邸(京屋敷)は二箇所にあった。猪熊通中立売上ルの屋敷は元禄一四年から池田氏の所有となる。誓願寺通小川の藩邸は幕末期に置かれた。日置がどちらで謹慎したかは未確認。ただし、二つの藩邸はそれほど離れていない。(京都大事典、佐和隆研ほか編、淡交社、昭和59年発行。頁138)