Max August Scipio von Brandt。幕末から明治にかけての駐日公使。プロシア領事として着任し、1872年(明治5年)ドイツ弁理公使。なお、プロシアは英語風の読みでドイツ語ではプロイセンになる。
1835年10月8日、プロシアの将軍ハインリッヒ・フォン・ブラントの子として生まれ、プロシア陸軍を中尉で退官したのち、オイレンブルク伯爵の使節に同行、外交官としてのキャリアを開始した。1862年12月25日27歳のとき、プロシア初代駐日領事として横浜に赴任(この年の9月にビスマルクがプロシア首相に就任)。1868年北ドイツ連邦総領事、1872年(明治5年)には駐日全権公使に就任。
国名の変遷は、プロシアそのものの変遷による。1872年の職階は「幕末の・・」ではドイツ弁理公使、「ドイツ公使・・」では駐日全権公使。
1875年、シナ公使に転任。ワイマールに引退後、1920年没。
日本滞在中の見聞録である「ドイツ公使の見た明治維新」が刊行されている。(原著は『東アジアにおける三十三年-あるドイツ外交官の思い出』)