尊皇攘夷急進派の公家。文久二年国事御用掛、同三年二月、国事参政となりしきりに尊皇攘夷を唱えたが、文久三年(一八六三)八月十八日の政変で失脚し、長州(その後大宰府)に落ちた。七卿落ちの一人。
王政復古で復権し、参与となる。慶応四年正月軍事参謀となり、外国事務掛を兼帯、その後外国事務総督・兵庫鎮台・兵庫裁判所総督他を歴任、新政府の外交事務をつかさどった。その後も開拓長官、元老院副議長、枢密院副議長などを歴任。明治十七年伯爵。(『明治維新人名辞典』頁八〇九―八一〇。および『竹亭回顧録』)
【神戸事件との係わり】
慶応四年正月一二日に兵庫行きを命ぜられ、一三日に京都出発、一四日に兵庫に到着した。参与外国事務取調掛として、外国公使団と会談し、大政復古を報じる布告書を渡すなど交渉に当たっている(『復古記』第一冊 巻二十、正月十五日。内外書籍版頁五八四)。
『竹亭回顧録』(頁二四六)によれば、この時「田舎の兵士ども各国交際の道を知らず日本の武家の法のみ心得て右様の不始末をなしたるは甚だ恥入るところである」と発言した『復古記』ではこの言葉は見当たらず、「猥リニ各国人へ乱妨」としている)。今後の外国人の身の安全を新政府の名において保証した。
また、かって対応した幕府の重臣に比べ、対応が簡潔で即決することができる、と各国公使が評したという(『竹亭回顧録』頁二四八)。同様の記述は『復古記』や『遠い崖』六、頁二一〇のアメリカ公使ファルケンバーグによる国務長官シェアードへの報告にもみられる。
布告書を渡したあと、新政府により責任もって事件を解決すること、および事件責任者を死刑にするという外国側の要求を受けて、それを了承するという政府の回答を示したのち、一月二五日に帰京した。