◎日置忠俊(豊前守、大光院)

岡山藩家老、日置氏三代。豊前守。元亀三年(一五七二)生、一八歳で家督を継ぎ、慶長八年、池田利隆の家老職になる。金川の古城を改修した。

 利隆死後、光政に従って鳥取移住。その後備前に移り、再び金川を賜る。大坂冬の陣では西宮に出陣。夏の陣にも参戦。
 池田家が播磨から鳥取に、さらに備前に国替になる時代に活動した。当初一四〇〇石、寛永一六年に一六〇〇石となった。養子主殿之助の所領を含めて、一七〇〇石を領す。寛永一八年(一六四一)逝去。京都大光院に埋葬された。「大光院殿前武州太守徹叟良岩居士」。(『岡山県通史』下、頁三一二―三一三)

【補注】
 「日置家伝抄」に「日置豊前は金川を領有して新城を築き」とある由(『御津町史』頁一六三)。それを元にしているのか、複数の資料で「金川に新城を築」くと書かれているが、日置忠治が屋敷の石垣の改修について内々に公儀に相談した記録「金川石垣の御繕の義に付御聞合セ被遊候御書付の写(日置忠治伺書写)」(『御津町史』頁一八九―一九〇)に「日置豊前が金川の古城を修築」とある。他に新築したらしい城跡はなく、旧松田氏が構築した城を修築としたと判断した。
 なお、この城は慶長二〇年(一六一五)の一国一城令により廃され(実際に廃棄したのはかなり後)、その後は陣屋を置いた。
【参考資料】

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