深栖多門

萩藩士。玉木文之進、吉田松陰兵学の門下。四境の役では干城隊小隊司令として石州口に出戦。
一八六八年入京して親兵第一中隊司令となる。ついで越後に出兵、九月三〇日赤谷口攻撃で負傷し新潟病院に死亡。墓は新潟市寄居常磐岡招魂場。

【参考資料】
幕末維新人名事典、宮崎十三八、安岡昭男編、新人物往来社、一九九四。
一部表記を改めた。

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