池田慶政(いけだ・よしまさ)
岡山藩10代藩主。中津藩主奥平昌高の四男に生まれ、昌朝のち道政と称した。天保13年(1842)4月14日池田斉の養子となり、同年岡山藩主となる。後、慶政。
安政元年(1854)幕命により房総警備、翌二年摂津沿岸の警備に転じた。
国防の必要から兵制改革に着手し、大砲隊・銃砲隊の編成を進める。また財政改革を断行し、倹約を強制。このことが渋染一揆の要因のひとつだとされる。
政治的には尊攘翼覇という微妙な立場を取ったが、藩内に尊皇攘夷論が台頭した文久3年(1863)2月、徳川斉政の九男を養子とした茂政に藩主を譲り、隠退した。
【参考資料】
- 岡山県大百科事典/上、岡山県大百科編集委員会企画編集、昭和55年、ページ138から134(元号と西暦の表記の順を変えるなど一部記述を変更した。)
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