岩倉具視(いわくら・ともみ)
幕末・明治の政治家。号は対岳。文政8年(1825)京都の貧しい公卿堀川家に生れ、同じ公卿岩倉家の養子になる。
安政5年(1858)ハリスの要求により日米通商条約締結を決意した政府が、朝廷の了解を求めて老中堀田正睦を上京させたとき、当時の関白九条尚忠は要求を承認する方針で勅答案を用意したが、具視らはこれに反対して公卿の集団行動を組織、ついに堀田を勅許を得ないままで江戸に帰らせた。(中略)和宮降嫁に尽力するなど公武合体のために動いた。王政復古を主導したとされる。
明治新政府では議定、副総裁などを歴任。征韓論による対立などに関わり、明治七年赤坂で刺客に襲われる。明治16年(1883)没。
神戸事件当時、議定、海陸軍事務総督。直接的な交渉には登場していないが、京都留守居へ説諭するなど、様々な働きかけをしている。
【参考資料】
- 幕末維新人名事典、奈良本辰也監修、学芸書林、昭和53年刊。ページ72。
- 日本近代官僚制の創建と民権派官僚の政治活動、澤大洋著、東海大学政治経済学部紀要/第33号(2001)/ページ1から51。岩倉の役職は第1表による。
- 説諭に関しては、復古記/巻二十七、東京大学史料編纂所、昭和4年発行、昭和49年覆刻、ページ792。および、日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書(池田家文庫、資料番号S6-128-(2))十九頁
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