ハリー・スミス・パークス(英国公使)
Sir Harry S.Parkes。幕末から明治にかけての駐日公使。特命全権公使兼総領事
- 1828年生れ。祖父は英国教会牧師、父は鉄工場主
- 1832―1833年両親があいついで死去し、残された3人の子ども(ハリーは最年少)は父の兄弟(退役海軍将校)の手で育てられた。
- 1842年 英国全権特使の書記官並第一通訳官の下で働く。アヘン戦争終盤、英国の南京攻撃に参加。
- 1843年 広東英国領事館勤務。
- 1844年 厦門(アモイ)英国領事館通訳官となる。領事オールコックに認められる。
- 1845年―1855年 通訳官、書記官、厦門領事として中国で活動。
- 1856年 広東領事代理。アロー号事件起きる。
- 1865年 オールコックの後任として日本赴任。条約勅許を得る。
アロー号事件の時パークスを広州領事とする資料もある。(衛藤瀋吉著作集第四巻、東方書店、2003年刊。ページ47)。
神戸事件では、他の5ヵ国の公使とともに当初東久世通禧と、その後伊達宗城と協議する。幕末では新政府側を支援した。
瀧善三郎の助命に関する最後の協議では、オランダ公使とともに寛大な処置を主張したが、処刑派の決に従った。
事件後の3月23日(慶応4年2月30日)に朝廷へ参内の途中で、襲撃を受ける。
その後も賜暇や妻の病気・死去のため幾度か帰国するが、1883年まで日本駐在公使として活動した。
- 1883年北京駐在大使赴任のために離日。
- 1885年3月過労のため病気に倒れて死去。享年57歳。
【参考資料】
- パークス伝[東洋文庫429]、ディキンズ(Frederick Victor Dickins)著、高梨健吉訳、平凡社、1984年刊。略歴はページ361から365。
- ドイツ公使の見た明治維新、M.v.ブラント著、岡潔・永岡敦訳、新人物往来社、昭和62年刊
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