塩田三郎

 名は篤信、三郎と称し号は松雲。幕府医師順庵三子、江戸浜町に生れる。父に従い箱館に住み、栗本匏菴に漢学、名村五八郎に英語、仏人某に仏語を受く。通弁御用を命じられ米国鉱山学士に従い蝦夷各地を巡視。1863年江戸に帰り横浜鎖港談判使節に随行、67年外国奉行支配組頭となる。
 維新後、民部省奏任出仕、(中略)73年外務大丞。外務大書記官、外務少輔を歴任、85年特命全権公使として清国駐在中、北京で客死。墓は東京都台東区谷中の長久院。

 塩田は英語学習から始め、その後フランス語を学んでいる。
 ロッシュの通訳をしたことなどからフランス語に堪能という印象があるが、残した蔵書『塩田文庫』について述べた伊藤の論文などによると、実用に耐えうる範囲で英仏語が出来たようだ。


【参考資料】
・幕末維新人名事典、宮崎 十三八, 安岡 昭男編、新人物往来社、1994年刊。ページ473(一部表記を改めた)。
・<エスキス>塩田三郎と<塩田文庫> : 幕末期を中心に、伊藤尚武著、参考書誌研究/24、(1982)、国立国会図書館
 国立国会図書館デジタルコレクションで公開している<エスキス>塩田三郎と<塩田文庫>はこちら

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