神戸での衝突時、銃撃を受け、捕虜となった日置隊の従者。日置家の所領下田村(岡山市北区御津下田)出身。日置家家臣寺田竹三郎(百石)の鉄砲持ち。銃撃戦で被弾して捕虜となった。『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書類』(池田家文庫S6-120)の頭注によると弾二発を受けたとされるが、軽傷だったと思われる。捕虜になった時には、肉や砂糖を提供された。
この当時の軍隊は、戦兵と同数の雑人で編成され(『軍役之定』、池田家文庫H2―36)、また「雑人は銘々知行所より定之人数を仮出(かりだす)事」とされ(「慶応二年の軍令」『岡山県史』第九巻、頁六九』)かなりの数の農民などが動員されていたと思われる。
民之介以外にも、赤坂郡山田村の万三郎と善介は、外国軍から砲撃されたとき、荷物を投げ捨てて町裏に隠れたが、追いかけてきた外国兵に鉄砲を撃ちかけられたため、山中へ逃げこんだ。そこで、豆田村(瀬戸内市邑久町豆田)の者二人、富田村(岡山市北区富田)の者二人と出合い、山中で一夜をあかしたのち、六人で国元へ逃げ帰った。村方で取り調べられたあと、村役人・大庄屋から厳しくとがめられた。(『岡山県の歴史』頁二七一―二七二)
民之介のことは相手方、サトウの回顧録にも記され、拳銃弾を少なくとも一五発撃たれたが当たらなかったとされている。サトウは民之介に持たせた通知が無事届くとは思っていなかったようだが(『一外交官の見た明治維新』下、頁一三一―一三二)その後の経過を見ればちゃんと届いている。
(現在の住所は平成三〇年五月現在)
【参考資料】