津田弘道

 通称、彦左衛門。淡水陳人と号す。岡山藩士、明治政府の官吏。天保5年生れ。
藩命により、西洋流砲術を学び、砲術士官として約10年間海岸防備や京都守護の任に当たる。その後周旋方、探索方、外交方などを勤める。(中略)
 神戸事件の事後処理にも当たった。維新政府が藩論代表者を岡山藩に求めた際、花房端連とともに選ばれて貢士(下局の議員)となり、やがて戊辰戦争では岡山藩第二陣の参謀として会津・函館に出陣。維新後は米欧視察を経て、新政府に勤務する。大審院判事となり、その後退官して、帰岡。地域産業の育成に努めた。明治20年没。

 「津田弘道の生涯」によれば、衝突当時京都にいた弘道は、報告を受けて正月14日早追いで岡山に帰り、17日暁に岡山に着いて藩主に報告し、その夜にまた早追いで西宮に向けて出発し、19日に到着している。大阪を経由して(途中、西宮・大坂に用事で一泊)22日京都に戻っている。
 事件が瀧善三郎の切腹で終り、津田は挫折感に打ちのめされ、多忙もあり、「夜来泥酔昼夜を弁ぜず」というほど、痛飲したようだ。そして、2月11日に惣髪にしたという。


【参考資料】
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