伊予宇和島藩第八代藩主。神戸事件関連の池田家文庫の文書では、官位の伊予守と記述されるときもある。
衝突のあと、東久世通禧が京都に引き上げた後を受けて、兵庫で外国側との交渉の指揮をとった。瀧善三郎の切腹に際し、その死を悼んで短歌を贈った。
この時の伊達家の記録の一部を転写したものが、『伊達家記録写 故瀧正信殉国事歴』(池田家文庫資料番号S6―114。S6―121に同名の文書があるがこちらは史談会資料として作成されたもので内容が異なる。)である。ただし、『伊達宗城在京日記』などと比較すると、いくつか省略された部分がある。
【略歴】
幕臣山口直勝の二男、第七代藩主宗紀の養子になる。安政から慶応期に藩政改革を行って殖産興業と軍制改革を進め、高野長英・村田蔵六(大村益次郎)を招いて洋学を摂取した。安政年間、一橋派として活動、さらに公武合体派として動き、幕末四賢侯の一人に数えられる。安政大獄に関連し隠居した。
維新後、外国官知事、大蔵卿。[幕末維新人名大事典 上]
王政復古後、三職の議定に任ぜられた[幕末維新人名事典]。慶応四年一月一七日~同二月二〇日まで外国事務総督を兼ねる[幕末維新人名事典、復古記など]。
平成二七年に刊行された「伊達宗城公御日記 慶応三四月より明治元二月初旬」(近藤俊文、水野浩一編纂、宇和島伊達文化保存会監修、創泉堂出版、二〇一五)を参照すると「伊達家記録写 故瀧正信殉国事歴」および岡山藩沢井権次郎の書上げと符合するところが多い。
幕末の伊達宗城の活動は、『伊達宗城在京日記』第七巻、北宇和郡誌前編に詳しい。北宇和郡誌では須藤但馬の名も何度か見ることができ、腹心であったことがわかる。
【参考文献】
- 幕末維新人名大事典 上、安岡昭男編、新人物往来社、二〇一〇年
- 幕末維新人名事典 日本歴史学会編、吉川弘文館、昭和五六年。
- 伊達家記録写 故瀧正信殉国事歴(池田家文庫 資料番号S6―114)
- 伊達宗城在京日記七巻、日本史籍協会編・出版、大正五年
(国立国会図書館デジタルコレクション 伊達宗城在京日記はここ)
- 北宇和郡誌 前編、愛媛県教育委員会北宇和部会編、関和洋紙店印刷部、大正六年(国立国会図書館デジタルコレクションの書誌情報による)。
同書は「宇和島吉田両藩誌」として、名著出版会が昭和四七年に復刻している。また宇和島の書店も昭和六十二年に復刻している。(国立国会図書館デジタルコレクション 北宇和郡誌.前編はここ)