日本図書館協会〈Help-Toshokan被災地図書館支援隊〉参加

大鹿やよい 読書ボランティア 名古屋市立図書館臨時職員

Help-Toshokan被災地図書館支援隊 とは

目的:今回の地震・津波・原発事故などで読書環境を奪われた被災地に直接間接の支援を行う。現地の図書館と協議をしながら、支援を行っている団体、個人が共同して支援を行うようにする。
内容:児童書を中心に域内の分館や施設に避難している子供たちへの配本、読み聞かせ、上映会など。
概要は日本図書館協会のホームページ

出発前

昨年の暮れに山形の昔話を語り、東北に強い関心を持っていた。そしてこの大震災。根底に、阪神大震災を大阪で体験したとき、被災地にボランティアで入りたくても赤ん坊を抱えて動けず悶々としていたから。あるいは、実家が東海豪雨で沈んだ時、悪臭と停電で隣の名古屋市内からすっぽり取り残された、情けなさ悔しさを知っていたからかもしれない。そのとき被災した納屋を、見ず知らずの学生ボランティアに助けてもらった恩をいつか返そうとも思っていた。
 だが、そんな片隅に潜んだ想いも吹き飛ばすほど今回の被災はあまりに大きく衝撃だ。東北に行かなければ一生後悔するし、今行かなくていつ行く? 何が自分にできるか? 自分の生き方の問題だった。
 4月に入り、ネット、社会福祉協議会、NPO、レスキューストックヤード(RSY)、ボランティアセンター(VC)と受け入れ先を探し続けた。”自分がやれること”としたら読書支援だ。学校は避難所になっており、先生たちのストレスも5月の下旬ごろは溜まっているだろう。現地のVCから2件だけ回答が来たが「今は瓦礫とドロ出しのみです。いずれ読書支援もお願いするかもしれません」というものだった。
 RSYやVCは名古屋から送迎バスが出るが、勤務先の図書館の整理期間を利用して行くので(臨職は休み)、予定の5月下旬のバスの日程は不明。どんな活動内容でもいいから自力で行くしかないのか。あきらめかけたとき図書館職員のOさんから日図協が募集していることを知らされ、すぐ申し込んだ。その日が締切だった。今までやってきた活動が一番活かせる、読書支援で行くことが出来るのが本当にうれしかった。天災型保険も入った。ネックとなっていた家族の了解もなんとか得られた。パネル、エプロン、人形、絵本等を鞄に詰め込む。
 東北行きを、多くの友人や仲間が応援してくれた。「私の分まで行ってきて」「受け入れが決まって良かったね」「その体験を帰ったら活かして」「司書が行くべきところをご苦労様です」「いろんな人との出会いが成長させてくれるよ」など。皆の想いも一緒に行くのだと知った。
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5月19日(木)

6:50 名古屋駅をのぞみで出発。8:30東京駅着。都バスに乗る。
8:45 日図協着。集合まで時間があり、図書室を見学する。
10:00 集合。リーダー、サブリーダーほか8名が顔合わせ。メーカーから購入した簡易図書棚と本28冊を車に積む。この本は日本化学会が29冊を1セット(1箱)にして寄贈された科学の本。1・2年、3・4年、5・6年と仕分けされ、日図協でのブッカー澄み。
瓦礫に乗り上げる船の写真 10:40 車2台(ライトエースとキャンピングカー)に分乗して出発。昼食・休憩はSAにて。
18:00 一関の焼き肉店で夕食。キャンピングカーは、タイヤの空気が抜けており、修理工場へ。(東北自動車道で気仙沼に近づいたとき、路上にタイのゴムだけが落ちていて、その横の山の斜面に車が頭を下にして乗り上げていたのを思い出し、リーダーが「先週なら道路が地震で状態が悪く、キャンピングカーは事故っていたかも」という)   
20:30 私の乗ったライトエースは気仙沼駅で今回同行する文科省2人(女性課長、男性課長補佐)と合流。
21:00 民宿着。ミーティングで被災地図書館の支援状況と明日の予定が話し合われる。
21:30 布団に入り消灯したとたん、ガタガタと強い揺れ。阪神以来、少しの地震でも怖がるようになった。かなり強いと感じたが震度3だった。この後も現地にいる間、日に2〜3回揺れる。

5月20日(金)

7:00 食事。女将さんが「食材が手に入らなくて」という。なるほど、冷凍や缶詰を上手に調理してある。いつもは受け付けない酢の物を食べた。
 同乗同室の東京都港区立図書館のKKさん、八尾市立図書館のKYさんと近所を散歩する。水仙が咲いてツツジが咲いて桜が咲いている。季節が一度にやってくる。この民宿は半島の先端の高台にある。空は青く空気は澄み、鶯が鳴く。遠く眼下に海が見える。美しく静かな朝。ブロック塀の亀裂が、ここは被災地だと告げる。気仙沼市は石巻、陸前高田に次ぐ大被災地だ。(6/11不明・死者1551人)
8:00 出発。夕べは暗闇で何も見えなかったが、テレビなどで見るあの映像が目に入る。リアス式海岸特有の複雑に入り組んだ海岸に出るたび、土台のない集落が現れる。防潮堤は破壊され、海の中にゴロゴロところがり、海岸線は海と化し、少し内陸は一階だけがえぐられ二階がきれいなままなのが却って痛々しい。その屋根に車が載っている。こんな山の中までも、と思う所にもその爪痕はあった。川に2軒の屋根が浮いていた。家ごと沈んでいるが放置されたままだ。

9:00 鹿折小学校 この学校は低地ではないが、川沿いに建つ。川が逆流して津波となって校舎に押し寄せた。出迎えた校長先生が「新築で12月15日から3ヶ月しかすごしていないんです。1階の140cmまで泥水が来ました」といって、壁の線を指す。2階の図書室に案内される。途中の階段すべてに可愛いお花の鉢があった。「せめてお花でもね」と女の先生。壁には全国はもちろん、カナダやアフリカなど世界からの寄せ書きが掲示されていた。図書室には、白い花で縁取りされた額が置いてあった。『○○さん、やすらかにおねむりください』と3人の名前が記してある。下調べで、地震後おじいちゃんが3人の孫を車に乗せて自宅に戻る途中、津波にのまれたことを知っていたので手を合わせる。

 多目的室でおはなし会。
お話会 9:30  1年 絵本・紙芝居・パネルシアターなど(大鹿、KKさん)
10:15 3年 詩・絵本・わらべうた 
10:35 2年 絵本
11:30 5・6年 本贈呈式 
 子どもたちは楽しんでくれた。              
絵本のスイミーで使ったぬいぐるみでひとしきり遊んでくれた。

12:00 時間を節約して車中、コンビニのおにぎりで食事。

13:00 松岩小学校 学校は高台にある。歴史のある学校。校長室に案内される。体育館が避難所でその世話もあり、職員は3月11日から泊まり込みだという。おはなしのボランティアさんが定期的に入っていたが、連絡が取れないという。無事でまた来てほしいと願う。3階の歴史資料室へ。松岩小出身の学者など紹介される。窓から気仙沼湾を眺めながら(震災前は建物で港は見えなかったらしい)被災状況を聞く。港の燃料タンクが津波で押し流されながら火を噴き、そこらじゅうを焼き尽くして、学校も覚悟したという。火は3日間消えなかったという。廊下には寄せ書きや千羽鶴が飾ってあった。

各教室でおはなし会。1年3クラス、2年2クラス 同時進行 45分
13:40 1年1組 マジック・絵本・パネルシアター・エプロンシアター(大鹿)、2組 絵本・紙芝居・パネル、3組 語り・詩・絵本、2年1組 絵本、2組 絵本・語り・わらべうた・紙芝居
 導入でマジックをしたことで和やかに入れた。エプロンは初めての挑戦だったが、一番反応が良かった。

15:00 気仙沼市役所 被災者はもちろん、応援の他県の職員やボランティアでごった返している。廊下で仮設の申し込みか何かを受け付けている。教育長と面会。文科省の二人と復興の意見交換がされる。
私たちはこの同席を感謝する。教育長はこう言ったのだ。
「図書館は、昔は読書好きな人が読書をするところだったかもしれない。現在は図書館をはじめ体育館や公民館は地域の社会教育の場。これは基礎の基礎。特に図書館は情報センターの機能もある。今、委託だの指定管理が進んでいるが3〜4年で入れ替わるようではいけない」教育長は、ぼそぼそと話した。一番端に座っていたのでその内容を聞きもらすまいと身を乗り出すと他の隊員も同じように、うなずいたりしている。部屋を出ると皆興奮して口ぐちに言った。「全国の教育長がああだったら日本も変わるのに!」「あの教育長を連れて帰りたい!」「オレ、聞いてて涙が出そうだったよ」


16:30 気仙沼図書館 高台にあるので、津波の被害はない。2階が増築のため、通し柱がない。そのため2階の柱の根元はほぼすべて、10cmほど壊れている。危険のため1F一区画しか開館できない。館長の家は流され、副館長は3・11以降泊まり込みだという。(館長、副館長が混同されており間違いの可能性あり)自動車図書館が入口横にあり、積んだ本は利用者に無償で支給されている。(ラベルがないので、全国からの寄付か)この車(bM)は見た目は分からないが、津波に呑まれてエンジンが故障。日図協がどこかの廃車待ちのbMをまわすことになった。
 入口を入った壁に一面、震災後から年内までの雇用案内等が掲示されている。期間、人数、賃金、仕事内容などかなり細かく表に記されている。壁の下にある机も震災関係の資料が多種ある。教育長の言った情報センターが機能している。今までもそのように運用されていたに違いない。なかでも、使い込んだのだろう、上の数枚がめくれた束が目を引いた。死亡者名簿だった。


18:30 宿に帰り夕食。図書館長や教育長は女将さんも顔見知りらしい。狭い部落なので皆知り合いだ。だから知り合いが何人も亡くなっている。「○○さんも△△さんも行方不明。今ごろは魚の餌になってるよ、かわいそうに」と言ったとき、全員がかける言葉もなく、箸を持ったまま下を向いた。
20:30 明日の打ち合わせ。
23:00 就寝。
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5月21日(土)

8:00 出発。気仙沼図書館に寄り、鹿折小の4年生用の本を積む。

9:30 総合体育館 山の上にあり、かなり大きい。搬入口で自衛隊が炊き出しを調理している。500人くらいの被災者がいる大所帯。高さ1mのダンボールで迷路のように仕切られた中にお年寄りがいる。
 主に女性。ぐりぐら人形を手におはなし会の呼び掛けをする。女の子が「あ、また来た」と言う。聞くと松岩小の1-1だという。おはなし会に誘うと卒園式で今から出かけるという。2か月も延期された被災の大きさを想う。おはなし会の会場のプレイルームもかなり広い。おもちゃも充実している。

10:00 おはなし会 風車工作・サイコロ工作・お手玉・大型絵本 30分
11:00 外の広場での催しを見学。のっぽのクラウン、女子大生風サンドイッチマン。100人ほど並んだ三つの行列が待つのは、さっき見た自衛隊の炊き出しを受け取るためらしい。

11:30 鹿折小学校。昨日渡せなかった4年生に本の贈呈。学校の横の空き地に児童、保護者、先生たちがひまわりの種を植えるため、土を掘っていた。首にタオル、長靴姿の教育長もいた。良い人だなあ。
12:30 国道沿いのラーメン店で昼食。震災直後から営業したらしい。必死で食べた大盛りの気仙沼ラーメン。

13:30 松岩公民館 高台にある。玄関に大量の缶詰を煮沸・洗浄しているボランティアがいる。外国人、福岡のゼッケンを付けた人など。端の大きなテントの中はお風呂? 同乗の誰かが、沖縄の自衛隊が来ていたと言う。体育館とは雰囲気が違う。部屋も会議室、集会室など細かく分かれている。お年寄りは静かに横になり、係りの人は忙しく動いている。みんな疲れた様子。

 体育館の隅を借りておはなし会。
14:00 風車工作(全員)・エプロンシアター(大鹿)30分
 右の写真は中学生相手に虹のマジックをしているところ。エプロンシアターの写真 まったく受けなかった。かわりにエプロンの『三びきのやぎのがらがらどん』は女の子がすごく喜んだ。
 手前にブラックフォーマルが貸し出されている。後ろには冬物衣料の段ボールが山積においてある。ここでも昨日逢った、鹿折小学校の3年の子がいた。

15:00 文科省の2人を気仙沼駅で降ろす。全然いばったところがなく熱心で、気さくに接してくれた。このとき、火事で港方面から黒煙が上がる。

15:30 気仙沼図書館に第4回の荷物を預かってもらう。4回は気仙沼湾に浮かぶ大島。壊滅だという。図書館に来ていた2〜3歳の子が突然泣きだす。港方面の火事のサイレンの音で怯えたらしい。幼子の心の傷を思うといたたまれない。

16:30 南三陸町 流された図書館跡を見学する予定だったが、一帯が海になっていて、近寄ることさえできない。隣の4階建ての町営住宅は津波避難ビルだ。44人が屋上に逃げたが、そこを津波は超え、給水塔に昇ってかろうじて助かった。他の住民は潮の異常な引きから危険を感じ、高台へ逃げた。  
 200mほど内陸に志津川病院がある。3階まで津波が来て、屋上にHELPと書かれた所。その中間に公民館がある。3階建てだったが3階が津波でけずられ、2階建てに見える。遠くに見えるのは、例の赤い鉄骨のみ残した防災庁舎だ。ほかは瓦礫があるのみ。
 私たちの乗った車は出ようとしたとき、泥にタイヤが埋まった。ロープや布団、脱出の材料はいくらでも手に入った。かなりしつこく、JAFも呼んだが結局、隊員のEさん(男性)に助けられた。ここに道など存在しないのだ。悪臭と虫が身体に付きまとった。
 移動中、車窓からランドセルを見た。瓦礫の一部として泥にまみれた黒いランドセル。個人活動なら、拾って洗って然るべきところに届けたい。持ち主が無事でいますように。

18:00 宿、夕食。
20:45 反省会。それぞれが今回の支援やこれからのこと、日図協に対する要望や期待することなどを話し合った。リーダーが「今日の避難所は環境がいいほう。食事などが行き届かない、小さな避難所はいくらでもあることを知ってほしい」と言った。
  今後の図書館支援としては現地が求めていることと、こちらが出来ることをマッチングさせること。
 要望が時間とともに変化するので連絡を密にして、その都度必要なことをする。3年後に仙台で日図協の全国大会をする。以上がこのメンバーで確認し合った。
23:00 就寝。                   

5月22日(日)

8:00 出発。女将さんが雨の中、見送ってくれる。

9:00 気仙沼駅でここが産地のお土産を買う。渡す時に、伝えようと決めていたこと。「必ず“東北がんばれ”と想いながら食べてね」

12:00 仙台泉図書館 繁華街にある。周りのビルなどは被災の様子は見えない。図書館の玄関、駐車場側が地盤沈下で亀裂や段差がある。建物の地盤沈下した側の壁が何か所もくずれている。3・11と4・7で本が放り出されたため、書架にはすべて荷造り紐が掛けられている。震災が無ければ素晴らしく使いやすい。(2年前に改修されたばかり)視聴覚資料が25,000点! 紙芝居が10mはある通路の専用書架にずらりとある。10日ほど前から貸出・返却のみ、玄関に横付けされたBMで運営。
気仙沼図書館といい、BMはありがたい。名古屋市は残ってよかった。

13:00 高速で東京をめざす。
14:00 SAで食事。1個300円の米沢牛コロッケを食べる。高っ。同値段の牛タン焼きにすればよかった。
16:00 休憩。智恵子の安達太良山が見える。福島だ。KKさんが、入口の上に書かれた『がんばります福島』を見て、「がんばりようがないよね」と言う。「ほんと。なんとかして福島、だよ」と私。
 お土産のお菓子の小さな包みに〈がんばれ東北〉と書いてあった。帰途らしい自衛隊もいる。任務を終え、どの顔もほっとした表情に見える。「お疲れ様、ゆっくり休んでください」と心で伝える。
19:30 いよいよ東京。スカイツリーの先端が雲に隠れている。たそがれの川面に高層ビルが映る。沈んだ家の赤い瓦はそこにはない。ビルは隙間なくびっしりと建つ。東京は美しいが人工的だ。かの地から都会へと戻ってきたんだと実感する。
19:40 荷物をひきずり疲れた足取りで、のぞみに乗った。

名古屋に帰ってから

*被災地ボラは偏食・小食者は行けない! 同乗のKYさんは大食漢(失礼!)であっぱれだった。
*おはなし会をした。それで? 今回はそれでいい。その次は読書支援をきっと。
*夢を見た。荒れ狂う津波の中を瓦礫と一緒にかき回され、もがく自分がいた。
*また夢を見た。8畳ほどのがらんとした部屋に赤鬼が来て、次に来るとき手が届けば食う、と言って出て行った。すぐにやってきて、襲い掛かるので必死で手がかりを求めて上へ上へとよじ登る。
 被災地ストレス? ちょっと危ない。
*風呂に浸かって(やっぱりいいなあ自宅の風呂は)と思う次の瞬間、被災地では・・・と想う。自分のベッドで横になると(やっぱりいいなあ自分のベッドは)と思うと被災者は・・・と想う。トイレのウォシュレットのボタンを押すとき、食事で食器を覗いたとき、申し訳ない気がする。
*帰ってからは震災の映像や情報を目にすると、すぐ涙目になる。
*体育館の避難所のおばあちゃんたちが、巾着が欲しいといった。地元にもどり、それぞれが集めた。
 取りまとめのYさんに送った。私だけでも2週間余りで260枚。手縫いもある。現地に行けなくても気持ちが伝わる。紙面を借りて、皆さん本当にありがとう。
*近所で、古いアパートが建て替えのため壊されている。東北でずっと聞いていた乾いた重機の音。

*本稿は「こどもの図書館あいち」に 2011年6月 279号から4回に渡って掲載の予定です。。
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