岡山の往来・逸話3

往来の逸話

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庭瀬の水運について

 庭瀬は陣屋町、そして物資の集散地として栄えた。いくつかの資料の記事を読むと、概要が分かる。

庭瀬陣屋(にわせじんや)町 [現、庭瀬]

 岡山城下町から西へ約七キロメートルのところにある。「寛永備中国絵図」の中田村に、「戸川土佐陣所」と記入してある。陣所とは陣屋のことで、庭瀬藩戸川氏陣屋がおかれていた。その陣屋の北側に、鴨方往来(岡山城下栄町を起点に笠岡まで結ぶ脇往還)に沿って形成された町並みが陣屋町で、庭瀬町としては中田村とは別の支配であった。

 町並みは武家屋敷と町人町とに分けられ、町屋には、本町・裏町・風呂屋口の三町があった。本町が商店街で、米屋・魚屋・旅篭などが軒を連ねて賑わっていた。裏町は庭瀬川港に沿ってつくられた港町で、廻船問屋などの水運関係の商人などが多く住んでいた。(中略)

 庭瀬藩陣屋町の繁栄は、鴨方往来(かもがたおうらい)(庭瀬往来ともいう)と庭瀬港の交通の要地にあったためである。庭瀬往来は、岡山城下から県道岡山・倉敷線(旧国道二号線)沿いに西へ向っていた。

 道は備中国に入ってから庭瀬の方に一直線に延び、平野村で北に、中田村で西に折れ、庭瀬陣屋を東西に貫いていた。この往来は山陽道の板倉宿(現・吉備津)と結ばれているため、庭瀬陣屋町には山陽道から来る人々も多かった

 庭瀬港は、足守川の支流庭瀬川が陣屋町まで流れているところにあり、裏町がその港町として栄えた。「庭瀬藩陣屋絵図」(吉備公民館蔵)には、庭瀬川が足守川に合流するあたりに「足森ノ大阪米是より積む、海上五十里是迄大船入」、その上流に「小船にて通る」とある。

 また、「道筋並灘道舟路帳」には庭瀬内海は四五間、満潮時には深さ七尺で二百石の船が入るが、干潮時には猟(漁)船も入らないと記している。このような記述は「備中誌」にもあり、足守川周辺の村々の住民は、庭瀬港から大阪などに行ったようである。足守に居た緒方洪庵は、勉学のため、この港から大阪に赴いたといわれている。

 このように水・陸両路の要地であったために旅篭(はたご)(宿泊施設)や馬次所があった。庭瀬往来の主要な目的は、岡山藩とその支藩生坂藩(倉敷市)と鴨方藩(浅口郡鴨方町)とを結ぶためのものであった。馬継所は、庭瀬と鴨方にあった(以下略)(岡山市の地名、p840-843)

「道筋並灘道舟路帳」は「備中国道筋並灘道舟路帳」(池田家文庫)と思われる。また二百石の船のおおよその大きさは[和船の様式](浦戸諸島:塩竃市のホームページ。2016/01/31確認)を参照。

旧庭瀬港(内港)と常夜灯

庭瀬は、近世まで足守川とその支流を利用した船運が盛んに行われており、地区内に張り巡らされた堀・水路を水運等に活用し、水郷のまちとして発展してきた歴史を有しています。さらに陣屋町を東西に貫く庭瀬往来(鴨方往来)は、近世山陽道とも呼ばれていることから、陸路と水路の交わる交通の要地であったといえます。

 一六〇〇年代中頃の寛文年間の左の絵図によれば、絵図の下方に描かれている足守川の河岸には、瀬戸内海を航行する船が出入りし、足守藩の年貢米の積出港としても重要な機能を有していました。この河岸で積荷を海船から小船に積替えて旧庭瀬港(内港)に入ります。

そこには、港町が形成され、庭瀬藩の商業・交通の中心地として栄えました。水路に面しては雁木(階段状の船着き場)が設けられ、入港する船のため木造で大型の常夜灯が一七〇〇年代に建てられていました。

 明治二十四年に山陽鉄道(現在JRの山陽本線)が開通して以降は、船の往来も減少し、昭和三十年代には水路も半分ほどの幅までに埋め立てられ、また常夜灯も昭和二十九年の暴風により被害をこうむり、すべて取り壊されましたが、その基礎(地伏石)は原位置で保存されていました。

 庭瀬・撫川地区の堀や水路による町割り、城跡や家屋の町並の景観保全を目指す住民運動は、これまで活発に行われており、その盛り上りを受けて、当時の古写真や地元の方々の記憶をもとに、埋め立てられていた旧庭瀬港(内港)を部分的に再現しました。

また当時の常夜灯の石積護岸の一部と約三メートル四方の基礎(地伏石)を使用して常夜灯を再建し、当時の旧庭瀬港(内港)の景観を平成十九年度に復元しました。 (説明板の記事:図は略)

 これらを念頭に、下図を見ると、水運の概要が分かる。ただし、水路は大幅に狭められている。


分流していた頃の高梁川

 かっての高梁川は、図のように分流していたようだ。このため、往来は二度渡河しなければならなかった。現在の形になったのは、明治40年(1907)から始まり、大正14年(1925)に完成した大改修工事によるという(高瀬通しの里、p66)。

 「吉備之志多道」(古川古松軒、安永九年、吉備群書集成(一)p446)にも同様の図がある。この図には西国街道を始めとした街道・往来が記載されて、「笠岡玉島ヨリ倉敷備前岡山往来」が図の東高梁川を渡ったところで分岐している。なお高梁川は松山川と書かれている。西国街道と鴨方往来と思われる道を転記した。
※吉備之志多道の成立年は、「岡山の古文献」p116による。

確認未了の項目です。今後追加修正の可能性があります。


水江の渡し

 高梁川の船渡しは、平成28年3月まで残っていました(昭和初期に復活したもの)。しかし、新しい橋ができたことなどの理由で廃止が決まりました。鴨方往来などの船渡しとは違うとは思いますが、その片鱗でも味わいたいと乗りに行きました。(乗船日:平成28年3月11日(金))

水江の渡し 水江の渡船

水江の渡し 水江の渡船

水江の渡し 水江の渡船

【倉敷市のホームページから】
 大正14年の高梁川の大改修をきっかけに「水江の渡し」が始まりましたが、この「水江の渡し」は,平成28年3月31日をもって,最終運行となります。 90年という長い期間の御利用,誠にありがとうございました。

●水江の渡し
  □運行時間・・・7時~11時,14時~18時(12月~2月は17時まで)
       日曜日・祝日・年末年始は休み
  □乗船場・・・・2か所(水江側,船穂側)
  □料金・・・・・無料
  □乗船方法・・・船穂側にある渡船詰め所に声掛けする,水江側乗船場から
     挙手するなど乗船の意思表示
(4月になれば消えると思うのでリンクははりません:管理人)


白神源次郎について

 白神源次郎(しらが げんじろう)
 明治元年(1868)11月10日浅口郡船穂村堅磐谷(かきわだに)(現船穂町※1)の農家に生れ、現役兵として広島の歩兵第21連隊に入営、ラッパ手となる。明治24年(1891)満期除隊、予備役に編入、高瀬舟の人足などに従事。日清戦争に際し充員召集をうけ、混成旅団に属して朝鮮に渡り、最初の戦闘である成歓の役(※2)で戦死。(以下略。引用ここまで。岡山県大百科上p1288 項目の著者/西川宏。)

 戦死後、「安城渡しの英雄」として喧伝され、児童読み物に掲載されたり、外国にも紹介されたようだ。明治27年に刊行された「征清戦功美談 第1編」(斉藤源太郎著・刊、明治27年。pp6-7)などでその熱狂を知ることができる(※3)。

 ところが明治28年6月上旬(「日清戦争が終わっての間もなくの6月」とあるので、同年と判断)には、「壮烈な戦死をしたラッパ卒は、白神源次郎にあらずして川上郡成羽村出身の木口小平二等卒なること判明す」との発表が広島の第五師団司令部からなされた。 (前記、岡山県大百科では翌年8月同様の報道が新聞によってなされたことが記されている)。

 白神源次郎の碑が建立されたのは、日清戦争が終わった翌年明治29年である。このあいだどのような協議がなされ、建立に至ったかは資料には書かれていない(高瀬通しの里 物語船穂風土記、pp173-181などを参考に管理人記述)。
また、彼の戸籍は<戦死>を<死亡>に改ざんされているという(岡山県大百科事典、同前)

※1 現在は倉敷市船穂町
※2 [日清戦争 地図と年表](描かれた日清戦争:アジア歴史資料センター・大英図書館共同インターネット特別展:サイト確認2016/03/08)
※3 国立国会図書館近代デジタルライブラリー征清戦功美談 第1編を閲覧。サイト確認2016/02/22)

「陸軍歩兵一[等]喇叭手白神源次郎[紀)念碑」の碑文について

[等)の字は読めなかった。彼が一等兵だったことから、等と判断した。[紀]についてはこう読めたが、紀念という言葉になじみがないので疑問を持った。インターネットで調べた範囲では他にも「紀念碑」とした例もあるようだった。


江戸時代の藩主の変遷(船穂町)

領 主石高城地管轄年代年間
小 堀 譜 代
(大和、備中)
14,000松 山慶長5年~元和5年
(1600~1619)
19
池 田 家 門65,000松 山元和5年~寛永18年
(1619~1641)
22
水 谷 譜 代50,000松 山寛永19年~元禄6年
(1642~1693)
51
幕 府直轄地  -元禄6年~ 〃 15年
(1693~1702)
9
青 山 譜 代 50,000亀 山元禄15年~寛延元年
(1702~1748)
45
松 平 譜 代 50,000亀 山寛延元年~版籍奉還
(1749~1869)
121
(「浅口郡誌」「瀬戸内農村の生産と社会構造」)
ここまで船穂町誌p59
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以下管理人注
※1 船穂町誌p.59より引用
※2 小堀氏は備中国代官
※3 亀山は丹波亀山(現亀岡市)。


北川大師堂と鴨方往来について

 無形の民俗文化財記録 第54集 辻堂の習俗Ⅳ 岡山県p18に「倉敷市玉島八島北川のお堂は旧鴨方往来に沿っており、北川集落のほぼ中央部で堂は南面している。」という記述がある。

この「玉島八島北川のお堂」は、yahooの地図で「北川大師堂」(2015/04/28再確認)と標示されているお堂であると思われる。

「歴史の道調査報告6」では、北川大師堂が面している道の北側を並行して西に進む道を鴨方往来としている。我々は調査報告6の通りに歩いた。
 大日本帝国陸地測量部の地図では、どちらが正しいか判断できなかった。平成28年3月11日に北川大師堂が面している道と調査報告6で往来とされている道の両方を歩きなおした。 その結果、

  1. 北川大師堂が面している道の終点ともいえる道口川の手前に昭和九年「駅道路改築記念碑」が建っていること
  2. この近くの呉服屋のおばあさんが、手前の道は新しい道、むこうの(調査報告6の示す鴨方往来)が古い道と教えてくれたこと
により、調査報告6の道が鴨方往来であり、北川大師堂が面しているのは昭和9年にできた玉島駅(現新倉敷駅)への直通道路だと判断した。辻堂の習俗Ⅳには、他にも首をかしげざるを得ない記述があるので、若干注意が必要であることが分かった。
北川大師堂 道路開通碑

書きかけ項目です。今後追加修正の可能性があります。


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