岡山の往来・逸話

往来の逸話

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種麦事件について

概要

笠岡市史第2巻

p226-228から部分的に引用する。

(前略)明和七年は前年に続き天候不順による凶作で、各地で百姓一揆が起こっていたため、笠岡代官所でも布告を出して、徒党、強訴(ごうそ)、逃散(ちょうさん)などを厳禁していた。

 同年八月になって、隣接する福山藩東部の村々で起きた百姓一揆に刺激された笠岡村の小作人らが連合して、地主に対して種麦の供与を強訴しようと計画した。

これを察知した村役人らが中止を説得したが聞き入れず、九月八日西本町天神社に百余人が集まって密議し、十一日に仁王堂町に集合して地主宅へ押しかけようとしたところを、手配中の代官所によって一網打尽に捕らえられたというのが事件の概略である。(中略)

 事件後二年近くたった明和九年六月になって、判決と刑の執行があった。首謀者の百姓久兵衛と水呑百姓儀兵衛が死罪で斬首、主だった水呑百姓(田畑を所有しない百姓)九人が所払い、その他の連累者一同に過料十貫匁が課せられた。(中略)

二人の刑死後、義民の死を悼んだ地福寺の栄厳和尚が願主となって、刑場の跡へ一基の供養墓を建てた。墓はいま富岡の元小学校の上り口に、頭に石地蔵を乗せて祭られている。(引用ここまで)

備中国小田郡笠岡村之内百姓騒立候一件

 笠岡市史 資料編 中巻,p245-265に事件当時の一連の書類を翻刻したものが上記資料名で収録されている。当時の代官であった野村彦右衛門(代26代代官:笠岡市史第2巻p226-228)が上司(松 対馬守:資料では松の後が空いている)に判断を仰いだ様子が分かる。

また、干魃で小作人が難儀しているのは村役人も代官も確認しているようだ。集団で事を起こそうとしたことを咎めたというように思える。ただし、事前逮捕に近いので破壊行為はなにも行っていないにも係わらず、責任者二人の斬首は過酷過ぎる気がする。
 参加者のほとんどが水呑百姓や小作であったことは、百姓とひとくくりにできない村の構造を示している。また、参加しない場合は一両二分を出すように触れたということが真実であるならば、騒動を起こす側の締め付けも見えてくる。

供養塔の所在

 お堂と地蔵尊があった道を上っていくと富岡公園があり、左手に徳民於賀神社、右手に富岡会館がある。ネットで調べたいくつかの情報から、富岡会館の場所はかって富岡小学校(※1)であったことが分かった。

以上を総合して、富岡で見た地蔵尊とその下の石碑が供養墓であると推測し、地蔵尊の台座に該当する部分を確認すると「願主 地福寺 栄嚴」という文字が読めた。
辻堂 供養碑
※1昭和41年に横江小学校と統合して、笠岡市立中央小学校となる:中央小学校HPより。サイト確認2016/02/25

平成28年2月25日


お清明神と白馬様

お清明神  吉浜土手の東水門のある山際に、岩を削り取って小さな祠が二つ並んでいる。左側の祠には石仏が安置され、その側に白馬が一匹祀ってある。(中略)宮の前に住む古老で氏子総代を永く勤めた○○氏が、今から、三百年程前、吉浜土手を築くとき、水野の殿様が連れてきた、お清(きよ)さんという娘と白馬が一匹、いけにえとして土手の下に生き埋めにされていると語ったので、はじめて石仏と白馬のいわれがわかり、浄財を集めて岩を削り祠を造り、のぼりをたて盛大な祭式を行った。以来世話をする者があって、今日迄供物と香華が絶えない。(以下略:○○は個人名なので管理人の判断で変更)
よしはま物語、p119-120

 

平成28年2月25日


釣頭制度

 よしはま物語pp43-61で釣頭(つりがしら)について、詳しく説明している。それによれば釣頭とは干拓後に、水野氏から特権的な身分を与えられた吉浜村の十二家のことで、村内十二の組の頭を担っていたようだ。そして、これら釣頭が村役人の地位を独占することが永く続いた。
 さらに水野家断絶後、天満宮(現菅原神社:管理人注)の祭礼を村が受け継いだとき、この十二家が祭礼の当番を交代で行うようになった。それを示すのが菅原神社参道の[子]から始まり、[亥]で終わる常夜燈である。

 しかし、時代が推移するにつれ、釣頭でも弱体になる家があり、同時に他の家(よしはま物語に「釣下」とされているのは組下の意味か)で力を持つようになる家が出てくる。江戸時代のいくつもの村で見られるような(※1)村運営上の争いが起きている。

 文久三年(1863)に村内百姓多数が連署して、村役人、釣頭を笠岡役所に訴えている。釣頭は弱体化しながら命脈を保っていたが、明治になって消滅した。

※1百姓の力(渡辺尚志著、角川書店、角川ソフィア文庫、2015.他に栢書房版もある)などによる。(管理人注)

元治元年訴状

よしはま物語pp43-44
(前略)また元治元年(1864)六月に、村方三役ならびに釣頭七人より、倉敷代官宛(※2)に提出した訴状の中に

「当吉浜村の儀は、寛文元丑年備後福山先の御城主水野美作守様、お見立(みたて)の新田に御座候、御高千二百石余の村高にて、開発の砌り所々出業(しゅつぎょう)仕候者、多人数之有り右の内重立ち候者十二人、釣頭と申す名目にて、十二組に仰付けられ、右釣頭の内諸役はもとより、氏神の祭礼等を引受け世話取り相勤め来り候儀に御座候(後略)」(引用ここまで)

※2笠岡代官所は天保11年頃倉敷代官所の出張所になる(笠岡市史第二巻p177)。(管理人注)

 ふりがなは対象の文字の後ろに( )で表記。改行など適宜挿入。

文久三年の騒動に関連する訴状

よしはま物語pp46-47
 文久三年(1863)七月に村内百姓四十二人が連署して、庄屋勘右衛門(笹賀屋、大橋勘右衛門)村役、釣頭を対手取って、笠岡役所へ訴訟を提起した。
(中略)後にこの一件は倉敷代官の手に移って、訴人の数は八十一人となり再吟味されたが、黒白の判決はせず、結局元治元年(1864)十月に至り大宜村の庄屋、松浦治郎兵衛と、倉敷村の庄屋、植田武右エ門(苗字帯刀を許されている)を扱人として、仲に入れ、双方を和解させている。(中略)尚この訴状一件のうち、百姓甚助外八十人惣代、伴助外二人より倉敷役所宛の訴状の中に

 「然る所当時に至り候ては、村役人共相勤め向役威に誇り、小前(こまえ)の者を見侮(みあなどり)、自儘(じまま)の取計い弥(いよいよ)増長仕り、殊更釣頭共の内に、其の身上向き不如意にて、小高(こだか)の者も之あり、其上釣頭株と唱え売買致し候由、旧弊とは申し乍ら、左様の次第にては、大切の御年貢米銀、取扱い候儀は、難渋至極、素より釣頭と申す儀は、外(ほか)村方にはこれなき役柄にて、村の為には相成申さざる儀に御座候間、以後釣頭の名目は、相止め候様、仰付られ下され度、願い上げ奉り候。

勿論御用、村用とも庄屋、年寄、百姓代三役これあり候はば、差支え之無き儀に、御座候間、庄屋勘右エ門、年寄、百姓代兼、脩作、保太郎は、期日通り退役仕り、後役の儀は、惣百姓の内、人柄を選み、小前連印を以て、願い上げ奉りたく」

 とあり村役人側からは反答書を以て反論はしているが、餘程の致命傷であったことが察せられる。(引用ここまで)

 ふりがなは対象の文字の後ろに( )で表記。改行など適宜挿入。

平成28年2月28日


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